衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月06日    日曜日     第3 回の開示 合計441回の開示

仏法の縁起観は外道の縁起観と異なる

問:一切の法は因縁和合によって存在するとされますが、『楞厳経』の「本より因縁に非ず、自然性に非ず」という言葉と矛盾しませんか。矛盾しない場合、この二つの表現はそれぞれ何を表しているのでしょうか。

答:一切の法の因とは如来蔵を指し、縁とはある法を生じさせる全ての条件を指します。世尊は「因有り縁有れば世間集まり、因有り縁有れば世間滅す」と説かれました。外道の因縁観における「因」は如来蔵を指さず、その「因縁」という言葉全体が単なる条件を指しています。故に仏は楞厳経において一切の法が因縁によって生じたとする説を否定し、全ては如来蔵性であると示されました。一切の法を直接生み出すものは如来蔵であり、全て如来蔵から発し、如来蔵が送り出す四大種子あるいは七大種子によって直接生じたものです。

十二因縁法は十二の連鎖のように見えますが、実際には前の法が後の法を生じるのではなく、全ての法は如来蔵によって生じます。他の法が一切の法を生じることはありません。故に如来蔵を離れて十二因縁法を説くならば、それは外道の説となります。辟支仏たちも如来蔵を離れずに十二因縁法を証得し、因縁法を逆推する過程で如来蔵が生命の源であることを悟りました。

世尊は楞厳経第三巻において一切の法が「本より因縁に非ず、自然性に非ず」と説かれました。これは世間の一切の法が様々な縁によって生じたものでもなく、自然に存在するものでもなく、如来蔵の中から生じたものであり、本来より如来蔵性を具え、全て如来蔵の作用によって形成されたことを意味します。従って一切の万法において自らの仏性、すなわち如来蔵性を見出すことができます。如来蔵は厳密なる大網の如く万法を包摂し、一切の法は全てその子民なのです。「本より因縁に非ず、自然性に非ず」という言葉の後には「本来の如来蔵性」が省略されているため、多くの衆生はこの言葉の真実義を理解し難いのです。

——生如法師の開示
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