仏が説かれた十二因縁法の実質は、各々の支分がすべて如来蔵によって存在し、如来蔵を離れれば因縁法は存在しないということです。世間の人々が説く縁起は表面的な現象のみを知り、あたかも「これがあるがゆえにそれがあり、この法が彼の法を生じる」ように見えますが、実際にはこの法があるがゆえに、如来蔵が彼の法を生じるのであり、この法もまた如来蔵の中の法であります。
いかなる法も如来蔵を離れれば、存在しないものであります。いかなる法の生じることも如来蔵による生じることであり、ただ多くの条件が整う必要があるため、如来蔵が彼の法を生じるのです。もし如来蔵を離れて縁起法を説き、この法が彼の法を生じることができると言うならば、それは根本的に成立しません。例えば無明縁行と言っても、無明自体が身口意の行いを生じるのではなく、衆生に無明があるがゆえに、衆生の如来蔵が身口意の行いを生じるのであり、その他のこともすべてこれに準じます。
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