妄心と真心は不即不離の関係にあり、完全に同一ではないが、全く別物でもない。頭と体の関係のごとく、泥と土人形の関係のごとく、黄金と金細工の関係のごとし。真理の次元において真妄は不異であり、妄は真から顕現したもので、理の上では真であるが、相の上では依然として妄が存在し、この妄は看過できず相応の作用を有する。例えば七識は妄であり、如来蔵より生じたもので如来蔵と不異だが同一ではない。もし七識を如来蔵と見做すならば、人々は坐禅して如来蔵を証得する必要もなく、ただ七識を如来蔵と認めれば悟りを得たことになる。実際これは誤りである。
もし眼識が即ち如来蔵であるならば、眼識を証得することは極めて容易で、眼識を証得すれば即ち如来蔵を証得し、明心開悟したことになる。般若唯識の経典を学ぶ必要もなく、眼識が即ち如来蔵であるならば、眼識を理解すれば如来蔵を理解したことになり、人間の言語が理解できる者なら誰でも五識の所在と作用を説けば、皆が明心見性の菩薩となり、衆生は仏法を学ぶ必要がなくなる。さらに如来蔵自体が解脱しているならば、如来蔵と眼識は同一であり、眼識も七識も解脱していることになり、そもそも仏道修行は不要となる。実際にはそうではなく、眼識等の七識と如来蔵は不即不離の関係にあり、完全な同一性は存在しない。
もし如来蔵と七識が同一であるならば、衆生が死亡時や昏迷時、睡眠時に如来蔵が七識に代わって見聞覚知し、五陰の活動を代替できることになる。そうであれば衆生は安心して死に、昏迷し、眠りにつくことができ、目覚めや転生を気遣う必要はなく、如来蔵が完全に自己の生存を代替できる。無余涅槃には如来蔵のみが存在するが、もし如来蔵と七識が同一ならば無余涅槃において如来蔵が七識の見聞覚知を代替できることになる。無余涅槃に見聞覚知が存在するならば涅槃は寂静ではなくなり、仏説の三法印における涅槃寂静の理に悖ることとなる。
例えて言えば金盆と黄金は不即不離であり、本質は黄金ながら相と作用に差異がある。盆が必要な時、黄金は役に立たず、金盆を用いねばならず、ここでは黄金は金盆を代替できない。また泥土で陶器を作れば、陶器と泥土は不即不離の関係となり、本質は同じながら相と作用が異なる。もし同一ならば泥の家を作る際、陶器は役立たず泥土が必要で、二者は相互代替できない。もし人々が工芸品を必要とするならば、泥土ではなく陶器を購入し使用せねばならない。このように全ての妄法と真法は完全に同一ではなく不即不離の関係にあり、相同じきものながらも異なり、各々の機能作用を有し、相互代替が不可能なのである。
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