問:今多くの人々が空を論じ有を説き、高談闊論しています。空は一つの境地であり、明心開悟した後に初めて体得できるものです。しかし悟りを開く前には、やはり第六意識で絶えず仏法を思惟し、六波羅蜜を修め、継続的に第七識を薫習調伏する必要があると考えます。凡夫の位では空を証得する能力がなく、ただ他人から空という言葉を聞いて自分の妄心で推測するだけでは、何の役に立ちましょうか。
答:凡夫の位においては一切の境界に対して推測と臆測しかできず、さらに見取見が断たれていないため、自分が推測した知見を正しいと執着し、他人の説は全て間違っているとして互いに論争します。見取見が深刻な者は道を障礙し、我見を断つことができません。
一般人が論じる空とは、往々にして自分の妄心を空じるだけのもので、様々な境界に直面する時に心念を断ち切り、座禅で定を修し、心中に念想が無い状態を求めて空を得たと思い込むものです。如来蔵の本来備わる空を体得することはできず、他人が如来蔵の空を説いても実際に証得していないため理解できません。このような空の修し方では、如何に修めても空に達せず、恰も「放下」と叫び続ける者が一生修行しても何も放下できず、臨終には業に引かれて三悪道に堕ちるようなものです。修行の方法は必ず仏が示された道筋に従い、四聖諦の理に基づき四念処観を修め、小乗の空によって我見を断ち、ようやく放下できるようになり、仏の説かれた大乗の理によって初めて如来蔵の本来の空を証得できるのです。
これらの現象は衆生の修行過程における一つの段階に過ぎず、福徳が具われば速やかに過ぎ去ります。大智慧には大福徳が基盤として必要です。福薄く障り重き者は、様々な誤った知見の絡み合いから脱することができません。昔、禅師が入滅の際に後継の弟子を選んで法脈を継がせようとし、弟子の智慧境界を試したところ、弟子が自己の知見を述べると「汝は福薄く、吾が宗を継ぐに足らず」と宣言しました。これは福徳が不足し智慧が至らず、禅宗の法脈を広めることができないという意味です。この福徳とは世間法の福のみならず、出世間法の福、すなわち戒定慧において修した大福徳を指します。故に般若空性を証得するには必ず福徳が必要であり、菩薩の六波羅蜜を全て修めねばならないのです。
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