法は本来法無しというのは、如来蔵というこの法の中に、一つの法も存在せず、形も相もなく、心の本体は本来空であることを意味します。この言葉は成仏の心や修法の念を捨て去れと言っているのではありません。そうすれば生死の火坑を離れることができなくなります。仏法を学ばない者は皆成仏の心も修法の念も持たず、永遠に生死輪廻の中に留まるのです。
善を思わず悪を思わぬ心とは真如の心を指し、これは三界の法や六塵の法を思考する機能作用を持たず、本来より善悪是非を知り思う性質がありません。善悪を思わないというのは、意識をも善悪是非を思わない状態に置けば真如になると言っているのではなく、意識心も思わない時は禅定の状態に入ったものであり、禅定の状態は依然として意識心の境界であって、真如の本心の本来の状態ではありません。故に意識心が善悪を思わない時を真如と見做し、この時悟りを開いたと思ってはならないのです。意識が禅定に入り思考を止めてしまえば、禅を参究できず、参禅せず思考しなければ、道を悟ることはできません。
私たちが修行によって体得した智慧の境界は、全て言葉で表現することが可能です。表現できないものは真の悟りを得ていない可能性があります。如来蔵が何処にあり、どれがそれで、どのように作用するかは全て表現可能で、簡潔な言葉でも明快に表せ、長文であればより詳細に説明できます。仏陀が四十九年かけても説き尽くせなかった如来蔵の法は、ほんの極少部分のみを説き、未説の法はまだ無量無数に存在します。故に真実の証悟を得れば、皆如来蔵を表現でき、正確に述べることができるのです。
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