衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年04月27日    金曜日     第1 回の開示 合計419回の開示

楞厳経におけるビリンガパーシャ尊者の修行体験

原文:我が初発心、仏に従い道に入り、数々如来の説く諸々の世間の楽しむべからざる事を聞く。乞食の城中にて、心は法門を思うに、路中の毒刺に足を傷つけられるを覚えず、身を挙げて疼痛あり。我れ知有るを念じ、この深き痛みを知る。覚えども痛みを覚ゆるも、清浄なる心には痛みの痛覚なし。我れまた思惟す、かくの如き一身に寧ろ双覚有らんやと。念を摂る事未だ久しからず、身心忽ちに空し。三七日の中に、諸漏虚しく尽き、阿羅漢と成る。親しき印記を得、無学を発明す。仏の円通を問うに、我の証する所の如く、純覚身を遺り、これ第一と為す。

釈:私が初めて発心して出家した時、仏に従って道に入り修行し、たびたび仏が説かれる世間に執着すべきでない事柄を聞きました。ある時町中で托鉢をしながら、修行の法門を考えていると、道中で毒のある棘に足を刺され、全身に痛みを感じました。その時私の心には「知」という作用があり、この深い痛みを認識していました。意識は身体の痛みを感じつつも、自性清浄心は痛まず、痛覚を持たないことを知っていました。

さらに思惟しました「この一つの身体に二つの覚知があろうか」と。この疑念が起こり、心を外に散らさず保つうちに、まもなく身心が突然空じました。その後二十一日間で一切の煩悩が空じ尽き、四果阿羅漢となりました。後に仏陀から直接印可を受け、無学位を証得しました。今仏が私に円通の修行法を問われますが、私が証得したところでは、ただ覚観に住し法義を思惟して色身を忘れ、禅定に安住することで智慧が生じ、無我を証得し阿羅漢果を得ました。

身体の痛みを感じる「知」は主に身識によるもので、身識が触覚の対象である痛みを知ります。もう一つの「知」は意識によるもので、意識は一方で身識の知を認識し、他方で痛みの微細な相を認識します。これは意識の証自証分による自己反照的な知です。

尊者は修行に専念していたため、身体は痛みつつも心は清浄であり、痛みの中に痛みなきものを思惟し、疑念が生起すると深い疑情に住したことで禅定が現れました。禅定中に五蘊無我を証得するまで深く参究したのです。

その後、集中力と覚知力を以て初禅を起こし、二十一日間で次第に煩悩を断じ、無漏の大阿羅漢となりました。これが証果と明心の修行過程、実修実証の道程です。戒・定・慧の三学を具え、尊者の戒行は円満であり、禅定が生起して初めて解脱の智慧が現れました。

この修行経験には一切の解釈的要素がなく、全て実修による体得です。現代の一部の人々のように、意識心で法義を理解しただけのものを悟りと錯覚するようなものではありません。真の悟りとは現前観察による体得であり、解悟の域にも達しない理解を証悟と称するのは誤りです。

今の世の人々の器量は、過去の修行者とは雲泥の差があります。些細な禅定の修養もないまま理論を語り、あたかも自証した如く振る舞う者を、どれほど戒めても目覚めず、自らを叱責されていることに気付かぬまま旧態依然としています。

——生如法師の開示
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