真如実観の初歩的な修習は、すなわち真如三昧の修習であり、一切の法がことごとく真如であると観じる修行です。このような修行では、相似空の三昧境地を得るに留まり、さまざまな禅定の境地を獲得できても、真の空三昧の智慧境地を証得することはまだできません。真の空三昧の境地を証得しようとするならば、禅定の中でさらに細やかに真如自性を参究し、その所在を見出し、その具体的な作用を観察してこそ、真の真如三昧を証得できるのです。
私たちが法を学ぶには、相似の法と真実の法を弁別する智慧、解悟と証悟の法の違いを弁別する智慧が必要です。解悟の方法を証悟の方法と見なしてはならず、修定の方法を参禅の方法と見なしてはなりません。浅い理解に満足して深心を起こして究竟の義を探究する努力を怠り、ましてや僅かな得て以て足れりとすることなく、大心の菩薩となるよう努めるべきです。実修の功夫がなければ、口先だけの修行に終わり、解脱の功徳を受用することはできません。解脱の味を知った者こそ、心の解脱がいかに洒脱で自在であるかを知り、世のどんな珍奇な物とも換えがたいと悟るのです。
いわゆる実修とは、禅定の修行を含まなければ実りあるものにはなりません。禅定を修めなければ、修めたものに実が伴うはずがありません。禅定がない状況、あるいは定が非常に浅い状況では慧を得ることはできますが、この種の慧は理解レベルの慧に過ぎず、実証上の智慧を得ることは不可能です。理解レベルの慧は、意識心が法を理解する段階に留まり、禅宗で「情思意解」や「意識卜度」と呼ばれるものです。その義が何であるか、なぜそうなのかを究めず証せず、ただ結果だけを知り、証明の過程を伴いません。
一方、実証とは証明の過程であり、導き出された結論が既定の答えに合致することです。この答えは仏陀が与えたものであり、証明の過程はそれぞれが実修観行する過程です。禅定がなければ、どうして観行できましょうか。どうして智慧が生じましょうか。解脱は智慧にあり、成仏は智慧にあるとはいえ、禅定がなければどうして真の智慧が生じ得ましょうか。ある修行者は、最後の慧だけを求め、定を求めません。食事で最後の一枚の餅だけに興味を持ち、前の餅は食べようとしないようなものです。禅定を伴わない慧は、まさにその最後の餅のようなもので、「説食不飽」すなわち空腹のまま高論を唱えるに等しいのです。
智慧が不足している者は、往々にして他人の高論や高調を好み、その腹中に真のものがあるかどうかを弁別できません。こうした態度は自らの道業を妨げ、全ての法を理解することがすなわち証得したこと、智慧を得たこと、解脱できることだと思い込ませますが、実際にはまだ程遠いのです。
一切の法を証明する過程では、必ず末那識(意根)が自ら参与します。末那識が確かな結果を知ろうとするなら、必ず事実の真相を知らねばなりません。末那識が事実の真相を知ろうとするなら、必ず証拠が必要です。この証拠の獲得は苦労の伴う過程であり、意識が広く深く細やかに証拠を収集する努力を要するだけでなく、末那識も深い疑情を起こして共に証拠を探求し、共に証明し、かつ意識が収集した証拠を確認しなければなりません。この過程は非常に容易ではなく、意識が気軽に何らかの法を認めるような生易しいものではありません。
末那識が見出した時、それは従来の知見を覆すものであり、末那識は触動と震動を受け、身心の覚受は非常に強いものとなります。この過程を経なければ、実修実証を語るべきではありません。禅定を離れては、この過程は到底完成できず、実修実証も語るに及ばず、それは単なる看板に過ぎず、高談闊論に終始するだけです。
一切の法の結果は、仏陀がほとんど答えを与えています。例えば「夢の如し」「幻の如し」「水中の月の如し」「鏡中の像の如し」「陽炎の如し」など、これらは全て仏陀が与えた答えです。答えを知っていることが何の奇異でありましょうか。証明の過程こそがそれぞれの真の智慧を示すのです。問うこと三つ知らぬ解慧は、少し賢い者なら誰でも得られるもので、何ら珍しいものではありません。
未悟の凡夫は、聡明で理解力が強く、知識が広博で、文才や弁舌に優れているため、時間をかければ数万字に及ぶ一切法が夢の如く幻の如しという論述を書くことができます。しかし、これらの論述のどこに観行の痕跡がありましょうか。どこに実証の痕跡がありましょうか。どこに証明の過程がありましょうか。にもかかわらず、ある者はこうしたものを好み、日夜暗誦しますが、どれだけ知識を蓄えても何の役に立つというのでしょうか。
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