衆生の業には定業と不定業があり、定業は一定の因縁条件によって不定業に変わり、不定業も一定の方法によって消滅します。多くの業は必ずしも報いを受ける形で消滅させる必要はなく、懺悔の方法によっても業を消すことができます。特に悟りを開いた後、世俗諦の理と勝義諦の理を明らかにすれば、消える業は多く大きく、心が変われば全ての業も変化します。万法は心によって造られるため、衆生の心が清浄であるか否かが鍵となります。ただし重大な定業は改めることができず、懺悔も通じず、必ず報いを受けた後に業種が消滅します。重大な悪業は自らの道業を深刻に妨げ、見道・証道を阻み、未来必ず三悪道に堕ちて長劫の苦しみを受けるため、全ての人は貪瞋痴の煩悩を降伏させ、故意・不意に大悪業を造作することを避けるべきです。
我見を断ち明心見性した後、無生の理を悟り、無生忍の智慧と無生法忍の智慧を具足すれば、これらの三悪道の業は消滅し、三悪道の苦報は人中で僅かな余苦を受けるのみで果報が終わります。業は生滅変化するもので本来固定的に存在するものではなく、生じた法には必ず滅する時があります。人為的な五蘊から生じた法は全て生滅し、真実に存在する永遠不変のものではありません。虚妄の法は全て変化可能です。よって修行においては懺悔等の様々な形で積極的に内心を改め、次第に清浄に転換させれば、業種も変化し得ます。
ただし造作した業種が完全に消滅することはほぼ不可能で、最大でも罪障を軽減するのみです。砕けた玉器は如何に修復しても裂痕が残り、撒いた水は如何にしても完全に回収できません。これらの因果律則は如来蔵によって実現されますが、如来蔵は主宰せず、意根は主宰できても如来蔵を通融できません。如来蔵には微塵の隙間もなく、言語も入らず、人情にも通ぜず、世故にも暗く、鉄面無私に固定されたプログラムで因果を実現します。そのため多くの地上菩薩も因果の苦報を受けるのです。
これらの因果の複雑さは地上菩薩の唯識種智で一部を観察できるのみで、完全に了知できるのは仏のみです。因果を深く信じることは非常に困難で、一般人は僥倖心理を持ち、因果に対し無自覚なことが多いです。入地の菩薩は如来蔵の運作の理を観察明らかにできるため因果を深く信じ、妄りに業を造ることを恐れます。それ以外の者は多く暗闇の中にあります。自らの道業を進め苦報を減らすため、常に言行を慎み、自らを低く置くべきです。特に大乗三宝と大乗如来蔵法に対し細心の注意を払い、智慧なき時は黙して語らず、大悪業を造り後悔することのないよう心掛けるべきです。
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