第八識は衆生が立てたものだと言う人がいる。我々が神様を立てれば、神様は存在し、立てなければ、存在しないと。しかし実際には、第八識は我々が立てる必要など全くなく、神様は本来自ら存在しており、誰が覆そうとしても覆すことはできない。神様は永遠に滅することなく、誰がいかなる力を用いても、神様を磨り消すことはできない。衆生が認めようと認めまいと、神様は常に人知れず働き続け、衆生のために一切の法を捧げている。頭を垂れて子の如く甘んじて仕え、神様はただ耕耘することのみに専念し、収穫を求めることはない。
第八識は世間で最も正しい眼であり、一切の法を見ることができ、しかも何も見る所がなく、一切の法を知ることができ、しかも何も知る所がなく、一切の法を聞くことができ、しかも何も聞く所がなく、一切の法を覚ることができ、しかも何も覚る所がない。神様は見ることがなくして見ないことがなく、知ることがなくして知らないことがなく、聞くことがなくして聞かないことがなく、覚ることがなくして覚らないことがない。第八識の無知というのは、第八識が六塵の境界に対しておらず、六塵の境界を分別せず、一切の法に対して具体的な了別をすることなく、また覚観 (vitarka-vicāra) がなく、名言概念がなく、知見がなく、観点・意見・見解をもたないからである。
しかし、第八識は何も知らないことがなく、何も見ないことがなく、何も聞かないことがなく、何も覚らないことがない。これはなぜであろうか。第八識は業種を了別することができるからである。第八識が業種を了別する時、一切の法を了別したことになる。同時に、第八識に依って運行する仏性は、一切の法の上で運行することができ、一切の法に対して見性を有する。それゆえ、一切の法を覚り、一切の法を観ずることができる。この種の覚観 (vitarka-vicāra) は七識の覚観とは全く異なり、その見性も七識の見性とは全く異なるが、衆生はしばしば区別することが難しい。
第八識は業種を了別した後、業種に依拠して一切の法を変造しなければならない。もし神様が一切の法を知らなければ、変造することができないか、あるいは錯乱して変造することになり、そうなると因果の不符、無因有果、有果無因という現象が現れることになる。しかし、衆生の因果はかつて一丝毫たりとも錯乱したことがない。このことから、第八識は業種を如実に了別し、如実に業種に依って一切の法を生じさせ、因果律を実現していることが分かる。実際には、第八識が一切の法を知ることができるからこそ、一切の法を変造することができるのであり、神様の知る方式は、一つには業種を知ることであり、二つには因縁を知ることである。他方、神様には見性の功能作用があり、一切の法を見ることができるので、一切の法の生起と転変に配合することができる。全体として言えば、第八識の見聞覚知性は非常に殊勝であり、また非常に特別であって、七識の見聞覚知性とは異なっており、我々には了知することが難しい。
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