一切の念いがないことが真如の心であって、妄心である七識ではなく、ただ真如だけが無念であり、一切の法を念わない。衆生の妄心はすなわち念いがあるものであり、六識が存在する限り、六塵の境界に対面せざるを得ず、必ず念想が生じる。仏は無上の覚者であるが、その七識心にも念いがあり、仏はどの世界の衆生の縁が熟しているかを観察し、応化身を現じて救済することができるが、観察思惟すること自体が念いであって、念いがなければ衆生の根機や衆生の因縁を観察せず、念いがなければ仏は衆生に応じて教えを説き、無量の法を演説することはない。釈迦仏が娑婆世界で衆生を救うことも念いを離れたことはなく、ただ仏が入定し、用事がなく、衆生を救う必要がない時にのみ念いがない。
しかし別の面から言えば、真如にも念いがあり、真如は六識が念う六塵の境界を念わない以外は、その他一切を念っている。悟りの後、徐々に真如の有念と無念を理解するようになるが、それは後得智、別相智、道種智によって初めて了知できる内容である。したがって、真如の無念を意識心の無念と見なしてはならず、また意識心の無念を真如の無念と見なすこともできず、悟り以前は往々にして仏語や祖師の言葉を誤解する。現在は一般的に真妄の区別がつかず、妄心の体性を真如の体性と見なし、真如が持つ体性を妄心に修行させて達成させようとしているが、どうしてそうできるだろうか? 要するに、現在の衆生は倒錯した知見が多すぎて、真なるものを真と知らず、妄なるものを妄と知らず、互いに混同して語っているのである。
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