世尊は『楞厳経』第三巻において次のように説かれました:如来蔵の中において、性覚は真空であり、性空は真覚である。清浄にして本然のままに、法界に周遍する。 これは虚空の性質が即ち如来蔵の本性であり、空大と如来蔵は一ならずして異ならず、空大は十方法界に遍く、空大は虚空を生じ得ることを意味します。経文に言う:虚空は汝が心の内に生ずる、一片の雲が泰清の裡に点じるが如し。 ここで言う心とは如来蔵の心を指し、虚空は如来蔵の心の中に生じたもので、しかも如来蔵の中ではほんのわずかな位置を占めるに過ぎません。あたかも雲が虚空の中に占める割合のようなものです。
衆生が生存する世界において、虚空はどこから来たのでしょうか。物質の中の空隙はどこから来たのか。居住環境の空間はどこから生じたのか。細胞の中の空隙、身体の中の空隙はすべてどこから来たのか。虚空と各種の空間はそれぞれどのような作用を持つのか。これらの空は広狭に関わらず、無から有へと生じたもので、すべて生滅の性質を帯びています。生滅性を有する以上、これら空を生じる種子が存在しなければ、空は生じ得ません。万法はすべて如来蔵より生じ、空もまた万法の一つとして如来蔵より生じるものであり、しかも如来蔵は空大の種子を用いてのみ虚空を生じ得るのです。
如来蔵が生じる空には、外界の虚空と空間、また身体内の空隙と空間があります。外界に空間があるからこそ、一切の色法を容受し、物質が運行し、音声や気体、味塵が伝播し、各種のエネルギーが伝達され、衆生が虚空の中で生存できるのです。外界の虚空はすべての衆生の如来蔵が共同で空大の種子を出力して形成したもので、すべての衆生の如来蔵が共同で保持するものです。虚空は絶対的な役割を果たし、十方世界はすべて虚空の中に建立され存在し、星体は虚空の中で運行し、衆生は虚空の中で行住坐臥し、各種の生存活動を営み、各種の物体は虚空の中で存在し運行するのです。
各種の物質の中にも空隙と空間があり、その空隙の多少の違いによって物質の構造が異なり、密度が異なり、物質の性質が異なります。物質の中の空間もまた、共業の衆生のすべての如来蔵が共同で形成し保持するものです。物質の密度とは物質中の空の成分に他なりません。空の比率成分が異なれば物質構造も異なり、物質の物理的属性も変化します。もし物質の地水火風の成分が同量であっても、空大の比率が異なれば、物質の体積も異なり、密度も異なるのです。
例えば圧縮ビスケットは普通のビスケットと異なりますが、これは普通のビスケットを圧縮することで、ビスケット内の空間が減少し、水分が絞り出されるため、ビスケット中の地大成分の占める比率が多くなり、ビスケットの密度が大きくなり、食べると腹持ちが良く空腹を感じにくくなるからです。もし物質が膨張すれば空の成分が増加し体積が大きくなり密度は小さくなり、物質の性質・作用も変化します。よって空大は物質の中でも極めて重要な役割を果たしているのです。
空間が異なれば、物質運動が生むエネルギーも異なります。例えば走高跳と走幅跳びでは、助走距離の空間的長短が異なり、長過ぎても短過ぎても跳躍力は小さくなります。空間距離が適切であれば助走の勢いは大きく、エネルギーも大きく、跳躍力も増大し、より高く遠くへ跳べるのです。また壁に向かって石を投げる場合、壁との距離空間が異なれば、石が壁に当たる力も異なり、つまり勢いとエネルギーが異なるため、壁の損傷程度も変わります。よって空間・虚空は極めて重要な法であり、生命体が密集して生活すれば空間が狭く生きにくくなります。例えば養鶏場で活動空間が狭すぎれば鶏が病気になり、場合によっては死に至ることもあるのです。
空には、衆生の如来蔵が共同で造り出した虚空もあれば、衆生個人の如来蔵が造り出した空間や空隙・隙間もあります。身体中の空間と空隙は自己の如来蔵が単独で空大の種子を用いて造り出したもので、細胞中の空も含まれます。身体内の各組織構造にはすべて空隙と空間があり、衆生個体の如来蔵が単独で空大の種子を生成したものです。身体中に空間があるからこそ、飲食や気体、血液が流動し、衆生は呼吸し生命の存在を維持できるのです。内臓の中に空があるだけでなく、骨格・筋肉・各種の液体の中にも空があります。身体中最も微小な細胞組織の中にも空間があり、細胞内の各種分子構造の中にも空隙があります。こうして分子・イオンなどの微粒子が運行でき、細胞は新陳代謝を営むのです。分子中の空大成分が異なれば分子構造も異なり性質も変わり、身体中で果たす役割も異なります。四大に空大を加え、衆生の三界世間を構成し、五大は一切処に遍く存在するのです。
虚空空間は色法の一つであり、眼識の現量分別境界であると同時に、眼識と耳識が生起する一つの縁でもあります。それは生滅性を有します。虚空は亀の毛や兎の角のような想像上の虚構物とは異なり、虚構物であれば眼識は見ることができず分別もできず、純粋に意識の非量境界に属します。しかし虚空は色辺色であり、眼識が一見して直ちに空であると認知します。よって虚空は有法であり、後天的に生成され、将来必ず滅び去るものです。無余涅槃の境界には如何なる空も空間も存在せず、まして虚空など存在しません。よって虚空と空間は如来蔵が空大の種子を用いて生成したものであり、空大の種子には生成の意義があります。七大中の空大は種子であり、空間・空隙・虚空を生じ得、衆生は虚空の中で生存し、物質は虚空の中で運行できるのです。五陰世間は虚空を離れず、空大を離れません。空大には生成の意義があります。空、即ち如来蔵です。空大は十方界に遍く、法界に周遍し、これが如来蔵の本性です。楞厳経に言う:空は大覚の中に生ず、海の一漚の発するが如し。空生とは虚空が生じることで、大覚心より生じたもので、大海中の泡沫が生じるように、最終的には滅び去り、生滅するものは虚妄です。よって如来蔵が虚空を生じるのには作用があり、虚空がなければ一切法の存在と運行もありません。虚空のこのような作用は虚妄の用であり、生滅性を有します。如来蔵独存の境界においては、わずかな隙間さえ存在せず、まして虚空など存在しません。故に空大は種子であり、生成の意義を有し、各種の空を生じ得るもので、すべて如来蔵の本性なのです。
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