問:意根は真偽善悪を区別できるのでしょうか?真に修行が実を結んだ状態とはどのようなものですか?
答:もし意根が善悪を弁えているならば、意識による導きや教育は不要であり、多くの場合意識を生じさせることもなく、自らこれらの事柄を処理します。意根は無記性であり、善悪の法を知らず、善悪の業を作りませんが、六識に善悪の業を作らせることができます。なぜなら意根には染汚性と清浄性の両面があり、もし意根の染汚性が現前すれば六識に染汚の業を作らせ、意根の清浄性が現前すれば六識に善業を作らせるからです。
修行を積んだ者は夢の中で悪縁に遭遇しても戒律を守ることを知り、悪業を作りません。夢の中での身口意の行いは、より一層その者の修行の程度を表します。夢の中で主体性を保って業を作らずにいられれば、中有の身においてある程度の確信が持てます。夢の中では意識心の制御力が弱く、意根の習気が完全に表出されます。夢の中で意根が習気を表さなければ、その者の修行が既に意根に染み渡り、意根が調伏されたことを示しています。
もし意識に修行がなされていれば、意識は自らが夢の中にいることを知り、意根に抵抗して悪業を作らないようにできます。したがって真の修行とは、意根を変容させるに至るべきものであり、意根にまで修められていない場合は、修行はまだ十分とは言えません。多くの者は意識すら染めることに成功しておらず、意識心が公然と悪業を作り、五戒すら守れないならば、その者は仏道に在るとは言えず、初めて仏法を学ぶ者です。
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