問:私はずっと「法塵」の内涵を思索して参りました。法処所摂色とは、意識の見る微細な色相のみならず、眼・耳・鼻・舌・身識の見る粗い色相をも包含すべきです。色と心は相対するものであり、色塵の概念はあるものの「心塵」という名相はなく、法塵によって統括され、色は半分を占め、心も半分を占めます。法は色法と心法を含むのです。
阿那律が眼根なくして見る色には、粗い色相もあれば微細な色相もあります。もし粗い色が見えなければ、どうして微細な色が見えましょうか。眼根なき者が色を見るとは、眼根なければ眼識もなく、当然意識のみが色を見るのであり、見られる法処所摂色の粗細は皆明らかです。
答:十一色法とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・色塵・声塵・香塵・味塵・触塵、最後に法処所摂色です。
法処所摂色は包含します:色塵に摂される法塵、声塵に摂される法塵、香塵に摂される法塵、味塵に摂される法塵、触塵に摂される法塵。
法処所摂色の法塵は単独で現れることはなく、必ず五塵と同時に現れ、五俱意識によって了別されます。故に識心が了別する法処所摂色には、必ず五塵の粗相が同時に現れます。これらの粗相がなければ、細相も存在しません。阿那律は眼根がなく、肉眼では色を見られず、彼の色を見るのは全て天眼によるものです。天眼が色を見る時、見えない色はありません。
法塵の概念内涵は極めて広範で、一切の法は全て法であり、皆法塵と呼ばれます。塵とは世間の相の如く、ちょうど塵埃のように、念々として留まらず、『楞厳経』で世尊が客塵と称されるものです。これは世間の客人であり、世間に常住できず、生じては滅するもので、主人ではありません。
世間の主人は第八識です。第八識もまた法ではありますが、生滅しない法であり、常住の法です。しかし塵ではなく、世間に漂い滅する塵相ではなく、塵労煩悩の相ではなく、出世間の寂静清涼の相です。故にもし人が煩悩に心を焼かれるなら、速やかに第八識に避難すべきです。
どうやって避難するのか。世間の事相が全て第八識の余法なきことを観察し、自心に起こる相が全て第八識の余法なきことを観察し、六根が全て第八識の余法なきことを観察し、自心の全ての分別了知性が第八識の余法なきことを観察し、自心の受覚が全て第八識の余法なきことを観察します。このように根・塵・識・五蘊の功能作用が全て第八識であるなら、既に全てが第八識であるのに、何を分別し、何に苦しむのでしょうか。どこに煩悩の相や苦の相がありましょうか。
このように観察した後は、苦を滅し苦を息むことができ、清涼寂静を得て、寂静の涅槃の中に入ります。第八識に厳々と包まれ、世間の一法も見えず、何と快適ではないでしょうか。第八識の甘露を独り飲むとは、何と清涼なことでしょう。
しかし、第八識を見出せない者が、どうしてその中に避難できましょうか。これは相似の避難、想像上の避難であり、真実の避難ではなく、長くは続かず、再び現れます。究竟的ではありません。ではどうすればよいのか。速やかに第八識を証悟し、速やかに菩薩の六波羅蜜と三十七道品を円満すべきです。仮の真如三昧は真実の作用を起こせず、大した力もありません。証悟して真実の真如三昧を発起すればこそ、保証が得られ、究竟的なものとなるのです。
悟り前の観察は想像推測と呼ばれ、悟り後にこそ能力と智慧をもって観察でき、真に苦を滅して清涼を得られます。ただし悟り前にも一定の作用はあり、暫時煩悩を押さえ伏せることはできます。
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