定を修める奥義は意根にあり、目標は意根にあり、目的は意根にあります。これは意根を調伏し、意根の功用を発揮させるためです。意識が心を一処に制するとき、意根に一処に作意することを強います。意識が散乱しなければ、意根も散乱しません。意識が散乱しない時は了別が減じ、意根を妨げず、意根の作意を集中させます。意識の思惟が緻密明晰であれば、その思惟内容が意根に伝わり、意根は意識の思惟観行する法に注意力を集中できます。意根が散乱しない時は、専心してこれらの法を思量し、そうして初めて法を証得できるのです。
仏が四念処観で定を修めさせた原理は、意識の作意を通じて、意根を意識が作意する目標に専注させることにあります。例えば意根が常に身根の呼吸と歩行に作意し、他に作意や攀縁をしなければ、専心して意識の了別する法を思量了別でき、頓悟して智慧が開けます。頓悟とは意根の悟りを指し、理を少しずつ明らかにするのは意識が分析を重ねた結果です。
非常に興味深い境界を観想すれば、意根をこの観想に繋ぎ止め、心を静めると気脈が流れ、心理的に快適な感受が生じ、意根は更に興味を抱き、専注して定を得ることに問題はなくなります。意識は非常に聡明で、一つの法を思惟分析することは問題ありませんが、肝心なのは意根に理解させることで、これが困難です。意根に注意力を分散させず、意識から伝わる情報を受け取り、再加工処理して吸収させれば、自らの結論=証法を得て豁然大悟するのです。身心に現れる様々な状態は、全て意根が引き起こすものです。
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