一つの言葉を聞いたり、一つの物事を見たりする時、十人いれば十通りの見解があり、百人いれば百通りの意見があります。なぜそうなるのでしょうか。各人の識心が異なれば、認識も異なります。認識が異なれば、感受も異なります。感受が異なれば、反応も異なります。反応が異なれば、言動も異なってくるのです。識心が一致した認識に達しておらず、それぞれの認識の程度が異なるため、一つの事柄について共通の認識を持つことは不可能です。共通認識がなければ、物事の発展や成功を促すことは非常に困難です。世の中のことが難しいのは、ここに理由があるのでしょう。
一方、仏と仏の道は同じです。なぜ道が同じなのでしょうか。それは、どの仏の修行もすでに円満に達しているからです。円満である以上、それは究極の境地であり、すべてが究極に達しているならば、その境地は必ず同じです。しかも、あらゆる面において同じであり、最も重要なのは智慧が同じであることです。したがって、どの仏もあらゆる事柄に対する見方は同じであり、彼らの間には永遠に意見の相違や争いは生じません。つまり、修行によって智慧が高まるほど、聖人同士の間の相違点は少なくなり、共通点は多くなり、より調和と黙契が生まれ、共通認識に達するのです。
ですから、私たちの修行の目標は、自らの智慧を深め、自分の知見を「見地(けんじ)」に変えることです。得道後の知見は「見地」と呼ばれ、その見地をますます円満にすることで、あらゆる物事が円融無碍(えんゆうむげ)になるのです。
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