暑い夏の日、道行く人が喉の渇きを覚え、一つの井戸を見つけた。水は清く深かったが、縄と水瓶を探しても見つからなかった。やむなく喉の渇きを我慢し、清らかな水を得て潤すことができず、井戸の水があっても自分とは全く関係がなかった。仏法を学ぶ者もこれと同じで、口では常に空(くう)を説きながら、それを実証する方法がなく、むなしくスローガンを叫び、依然として有(う)の中に留まっている。常に「放下(ほうげ)」と叫びながら、何を放下すべきか、どうやって放下するかを知らず、ただ常に執着し続けるしかない。それは方便的な方法と手段がないからである。解脱の方法を知ることは重要であり、そうでなければ井戸の縁に立ちながら喉を乾かすようなものだ。
衆生が解脱を得ようとするなら、必ず仏理に従って修行し実証し、我見を断ち、五蘊十八界が空であることを証し、人我なく四相もないことを悟らねばならない。さらに進んで五蓋を捨て離れ、初禅を発起し、煩悩を断ち我執を去って、命終して初めて三界を出て解脱を得るのである。何が我であるか、我とは何かを知らず、七識と五蘊に固執し、むなしく「破執」や「放下」を叫んでも、ただ徒労に終わるだけである。
小乗の解脱と放下は、必ず五蘊十八界の虚妄を観行し、一つの蘊ずつ観じ、一つの界ずつ観じて、阿羅漢の初果を証し、三縛結を断ち、漸次に四果を証して出離する以外に道はない。外道はこの理を知らず、長年修行を積み、最高の禅定を修得し、最高の天界に生まれながら、禅定の境界を涅槃と固執し、その定境が法塵に過ぎないことを知らない。知があるということは想であり、即ち我であり、依然として五蘊の中にあり、生死を出ていない。いつ解脱できるかは、はるか遠い先のことである。
仏法の修行は、聞・思・修・証である。まずは多聞、真の仏法を聞くこと。それは仏が説いたものであり、仏理に合致するものでなければならない。もし仏説に合わなければ、多く聞けば聞くほど生死を増す。次に思惟、理にかなった正しい思惟であり、邪思邪解はさらに生死を増す。次に修、仏理に従って修行すること。聞くことが正しくなければ、思うことに誤りがあれば、修行すればすぐに道を外れ、正しい道に上れない。最後に証、聞くことが正しく、思うことが透徹し、修行が正確であって、時節因縁が具足して初めて真実を証得できる。真実を証得して初めて真の受用があり、むなしく放下を叫ぶのは、目標がどこにあるかも知らずにやみくもに銃を撃つようなものである。多く福を積み、厳しく戒を持ち、常に禅定を修め、善く智慧を修めれば、解脱の大道は目前にある。
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