諸法は無我であり、これには人無我と法無我が含まれる。第八識の無我性は、大乗が証する法無我の内実の一つである。人無我とは阿含経に説かれる、阿羅漢が証する五陰十八界が我ならざることを指す。五陰の観点から見ると、色陰は無から有へ生滅無常であり、我ではない。受陰は念念に遷流し変化不定で、我ではない。想陰は生滅無常で念念遷流し変化不定、我ではない。行陰は生住異滅し久住できず、我ではない。識陰は刹那刹那に生滅変遷し、生じては滅し滅しては生じ、我ではない。五陰は因縁によって生じたもので、我ではない。
十八界の観点から見ると、前五根は無から有へ、有から滅へと移り捉えがたく、我ではない。第六根である意根は、識種が流注し刹那生滅し、阿羅漢の涅槃時にも滅しうるゆえ、我ではない。六識は識陰に当たり、生滅変易し我ではない。六塵(色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵)は無から有へ、有から無へと縁生縁滅し変化を止めず、我ではない。十八界の法は縁生縁滅し無常変易、我ではない。
これは総じて五陰十八界における人無我を指す。小乗の法無我とは、五蘊・六入・十二処・十八界が輾転和合して生じる一切の法の中に我が存在しないことを説く。例えば眼が色を見、耳が声を聞き、六根が六塵に触れ、行住坐臥し、衣を着て飯を食い、言語を交わし笑い、善悪をなすこと、内心の思惟・領会・分析・研究など七識心の活動、これら一切の法は真実ではなく縁生縁滅し無常変易で久住できず、いずれも我性を有さない、すなわち我ではない。
大乗菩薩の人無我と法無我は、如来蔵という観点から五陰十八界の人我の虚妄不実性を観察し、蘊・処・界が和合して派生する一切の法は全て如来蔵の功能作用であり実体がないと見る。前述の小乗の人無我・法無我を含むことに加え、第八識の無我性を証得すること、及び七識心の能取空・所取の六塵空(能所ともに空)をも包含する。五陰十八界の人空無我の部分は、第八識が五陰と十八界に種子を与えることによってのみ、五陰十八界の一切の活動が維持されているのである。
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