衆生无边誓願度
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日常法話

2018年04月01日    日曜日     第4開示 合計289開示

瑜伽師地論 第六十三巻

摂決択分の中の三摩呬多地の二

また五種類の定に相違する法がある。一に禁戒を毀犯する。二に無間の加行がない。三に殷重なる加行がない。四に沈没がある。五に他より擾悩される。

釈:弥勒菩薩はここで五種類の禅定に相違する障縁について説かれている。第一は戒律を遵守せず、戒律を犯すことにより、内心が濁って清浄でなくなり、禅定が現前しないことである。

第二は行う禅定の修行が継続せず、持続できず、修めたり止めたりすることである。湯を沸かすように、しばらく沸かしては火を止めるのでは、水は永遠に沸騰せず、禅定は成就できないようなものである。第三は禅定を修める際に、心が猛力でなく、確固たる信念と強い決心がなく、自心の散乱に随順し、妄念に流されながらも自心を猛烈に呵責せず、そのため禅定が成就できないことである。第四は心が常に昏沈状態にあり、清明でなく、念性がなく、精力を集中できないため、禅定が成就できないことである。

第五は外縁に擾悩され、外縁が心を侵すため、内心が平静を保てず、心の水が濁り、禅定が成就できないことである。

また三種類の遠離がある。一に住処の遠離。二に見の遠離。三に聞の遠離。

釈:修行において清浄を得て定や止を得ようとするならば、清浄な場所を選んで住み、喧騒を遠離し、心が外縁に牽かれず、次第に止息できるようにすべきである。禅定を修めて心に寂静を得ようとするならば、外縁に接触することを少なくし、六塵を見ることを少なくし、六塵を聞くことを少なくし、見聞覚知を減らしてこそ、寂静を得ることができる。

次に、心清浄の行を行う比丘には、略して五種類の等持に相違する厚重な過失があり、定の障りとなりうる。一に忿。二に慢。三に欲貪。四に薩迦耶見。五に堪忍できないこと。

釈:清浄な心行を持とうとする比丘には、五種類の禅定に相違する重大な過失があり、禅定を得る障りとなりうる。厚重とは非常に深刻であるという意味で、禅定に対する遮障が甚だしいことを指す。

第一は忿である。忿は怒りや憤りであり、情緒が著しく平静でなく、心の水が攪乱され、心が平穏で清浄でないため、禅定を発起できない。

第二は慢である。慢は自心を高く掲げて他を見下すことで、深層の情緒化であり、心の不平の表れでもある。心に少しでも不平があれば、それは紛擾であり、散乱であるため、禅定の生起を妨げる。

第三は欲貪、すなわち貪欲である。広義には世間の一切の法に対する貪愛、六塵の境界に対する貪愛、色声香味触に対する貪愛を指し、貪愛によって境界に繋縛され、心が境界に執着するのは散乱そのものであり、専一になることができないため、禅定を妨げる。狭義の欲貪とは、欲界衆生の男女に対する欲心を指し、身体的行為上の貪欲と、心の行いや念い上の貪欲を含む。身体的行為であれ心の行いであれ、心は清浄でなく、欲念に繋縛され、心が散乱し、道業に専一できず、一心に集中できない。したがって欲貪は禅定を妨げる。

第四は薩迦耶見、すなわち我見である。我見があるがゆえに、必ず五取蘊を執着し、必ず十八界を執着し、必ず身心を執着し、一切の法を放捨できず、心が清浄でないため、禅定を妨げる。

第五は堪忍できないことである。堪は耐えること、忍は忍耐である。自分に逆らう六塵の境界に対して心が拒絶し、耐えられないため、心が平静でなく、内心に動揺が生じ、禅定を得られない。自分に順じる六塵の境界に対しては、忍耐できず、歓喜して動揺し、心が平静でないため、禅定を妨げる。

——生如法師の開示
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