小乗における証果の要諦は七覚分の修持にあり、七覚分については既に概説いたしましたが、個人の修行実証にはなお一定の困難が伴います。後日因縁熟する時、実地での共修を経て初めて完成され、証果には一定の確信が得られるでしょう。修行の過程はまた四加行の過程でもあり、暖・頂・忍・世第一法という四段階は、文字理論を基盤とした内面の加工過程です。加工過程において、内心には必ず相応の変化が漸次生起します。これは観行の法義が次第に内心の意根と相応し、意根が徐々に領納受容する過程であり、もちろん最初に意識が先に領納受容して勝解を生じ、その後意根に伝えられ、意根に領納受容させるのです。意根が領納受容した後、身心は漸次転変し、七覚分が逐次現れます。定覚分が現れた後、初めて大智慧をもって五蘊身心の法相を捨て、さらに法を証し、世間第一となり初果の聖者となるのです。身心に変化がなく、転変がなく、七覚分が成就していなければ、我見を断じ証果することは不可能です。
暖相とは、文字理論を透徹し自ら思惟観行することにより、内面に暖相が現れることで、火花が散る如く、心にある程度正しい理論を認め、初歩的な認識を得て、興味を持ち、その内実をさらに深く探求したいと思う段階です。
頂とは、理論に対する認識が一定の程度に達し、一定の高みに至り、五蘊身心の空を了解理解し、五蘊認知の頂点に達する段階です。この時は完全に意識の認知と勝解であり、まだ意根には至っておらず、そのため内心にはなお躁動があり、五蘊空の認識に安住することはできず、進退両可能な段階にあります。
この段階では、ある者は内心に激しい反抗が生じ、思想が躁動不安となり、感情に浮き沈みの変化が現れます。ある者は万斛の苦悩を抱え、あるいは理由もなく焦燥感や憂鬱を覚えるかもしれません。この段階を過ぎると感情は正常に戻り、次の段階へ進みます。意識が空に安忍するだけでなく、意根も安忍し、さらに深く探究し、なぜ五蘊が空で実体がないのかを究明し続けます。
第三段階は忍です。忍とはすなわち安住であり、空義に安住し、五蘊の無常性を忍可しますが、まだ真実の証得ではありません。証拠が未だ不十分で、内心の考量が足りず、この理を真に確認できず、ただ内心が躁動せず比較的従順になっている状態です。同時に証拠を懸命に探求し、五蘊身心の実質を現量観察しようと努めます。この時、身心の覚受はますます軽安となり、ますます歓喜が増し、禅定はますます深まり、智慧はますます深細で鋭敏となり、空の念いはますます堅固となりますが、まだ捨に住することはできず、内心には捨覚分がありません。
捨覚分が成就する時、内心における我という観念思想を捨て去り、内心は空空となり、五蘊空無常の観念が固く確立され、証拠が十分となり、内心が完全に五蘊空無我を認証します。第四段階の世第一法が成就し、我見を断除し、初果を証得するのです。
観行の過程において、身心は絶えず変化を起こします。なぜ変化が起こるのでしょうか。意識の勝解を通して、意根が次第に一定の了知を得、従来の観念と相いれず、次第に従来の認知を覆すためです。意根が新大陸を発見すると、身心に相応の変化と反応を促すのです。したがって我見を断じ、五蘊無我を証得するのは、必ず意根によって証得されます。
我見を断った後に現れる覚明現象、身心に現れるそれぞれの軽安喜悦の現象は、意根によって促され、意根が身心に現す反応です。意識は身心に反応を起こさせず、身心に軽安や喜悦の覚受を現わすことができません。ゆえに我見を断つのは必ず意根が我見を断除するのであり、意識の我見はもちろん既に断除されています。
軽安喜悦覚明の現象が現れないのに、五蘊無我と認識するのは、これは意識が我見を断った状態で、まだ意根の内心深くには至っていません。意根が最初にこの理を認知した時は、反抗や焦燥感が現れ、程度の差こそあれ様々な表現があります。前世の根基が比較的良好で、五蘊を観行したことのある者には、これらの焦燥感は生じず、反抗せず、直接喜悦の心境が現れます。
何を実修というのでしょうか。これこそが実修です。これらの段階と過程がなければ、真に我見を断ったとは言えません。真に我見を断った後は、身心は必ず転変し、心行は必ず変化し、聖性は必ず現れ、内心は必ず空となります。どうしてそれほど重い煩悩が残り、どうしてあれほどの乱れた相が現れることがありましょうか。ありえません。内心が空となれば、余計なことは作り出そうと思わず、無為と初歩的に相応します。どうしてあれほどの乱れた事が起こり得ましょうか。ましてやあれほどの悪行が現れることなど、到底ありえません。
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