衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月30日    金曜日     第5開示 合計281開示

末法衆生無明愚痴深重

末法の世において衆生の心は浮ついているが、ある者はあえて衆生の浮ついた心理に順応し、衆生に取り入ろうとする。もし少しも衆生の悪習に逆らわないならば、どうして衆生は悪習を改め、解脱を得ることができようか。

衆生は貪欲であるだけでなく愚かでもあり、刃の先のわずかな蜜をどうしても舐めようとする。結局何を得るのか? それを考える者は誰もいない。大多数の者は眼前のわずかな利益と思えるものだけを顧みて、三悪道に堕ちる危険を冒している。一見大胆に見えるが、実は愚かであり、目先のことに捉われて、遠い未来の大きな利益を考えられないからである。

実に大多数の者は個人の利益だけを考え、打算している。しかし、その行いによって、利益を得られないばかりか、往々にして既に持っている利益さえも失ってしまう。だが、誰もこの点に気づかず、見ようともしない。なぜか? 無明愚痴であり、煩悩が自らの目を覆い、自分自身を見失い、真の損得や利害を見極められないからである。

因果に関して、多くの者は本当には信じておらず、常に僥倖を抱いている。因果は他人に降りかかるもので、自分には及ばないと思い込んでいる。だからこそ、自分の利益のために、他人が自分の言うことを聞かないなら必ず悪い果報があると言いながら、自らに悪い果報が迫っていること、自分がまさに悪い果報の因を作っていることに気づかない。

私が仏教を学び始め経典を読んでいた頃、因果に関する実話をいくつか目にし、因果は真実で虚妄ではないと信じ、身口意の三業を慎んでいた。しかし、今の仏教を学ぶ者は、経典を全く読まず、経典が何を説いているのかも知らない。それゆえに心が盲目で因果を理解できないのである。

現代はインターネットが発達し、悪業を造ることが以前よりはるかに容易になった。指先ひと動きで悪業が全国に広まるのは、実に嘆かわしい限りである。指を動かした後の悪果が何か、自覚している者など誰もいない。無知だからこそ恐れを知らず、心が塞がれ、他人に盲従し、善悪の区別もつかず、大きな悪業を造りながら、悔い改めることを知らない。

ある者が悪業を造るのは、他人に唆され、教唆されたためで、自分ではそのことを知らない場合もある。例えば、「こうすれば問題ない、因果は私が引き受ける、お前には善果だけあって悪果はない」と言われ、その言葉を信じてしまう。その者が本当に自分の因果を引き受けてくれると思い込むのだ。因果が訪れた時、それぞれがそれぞれの果報を受け、互いに代わることが全くできないこと、たとえ実の親であってもどうしようもないことを全く知らないのである。

——生如法師の開示
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