波旬のような悪童に対しても、師匠は叱りながらも頭を撫で、肩を叩き、「お利口にしなさい、お前もいつか仏となるのだから、もう騒ぎを起こすな」と諭される。衆生が皆仏となる可能性を思えばこそ、衆生の苦しみを思えばこそ、菩薩は厳しい姿を見せつつも慈愛に満ち、心は幾重にも優しく揺れる。
慈悲心を修めた菩薩は、衆生の乱れた様を見て嘆息し、その愚かしさを憐れみながらも、心は虚空のように全てを包み込む。内心は広大無辺であるだけでなく、極めて柔軟である。今の私の心は言葉にできないほど優しく、わざと騒ぎ立てる悪戯者さえも大いに好む。幼い頃からそうした腕白な小僧たちと接してきたため、彼らを嫌うことはない。
さらに菩薩は悟りを開き、全ての法が如来蔵より化現することを知るべきである。実際には一切の法は存在せず、全ては如来蔵の空相と空性に過ぎない。如来蔵に身を潜めて清涼を享受するのが、いかに自在で心地よいことか。このところ弟子が言うには「急いで如来蔵を見つけ、その中に身を潜めて清涼寂静を享受し、心に一切の是非紛擾の相を留めないように」と。この弟子は大いなる智慧を持っている。我々は彼に学ぶべきである。
『諸法無行経』において、「行」とは運行・活動・現れることを意味するが、諸法は実は実体がなく、運行もない。なぜか。一切の法は涅槃の相であり、寂静として作為がなく、生滅せず、繋がることも縛られることもなく、解脱もない。常に虚空のように寂静である。
一切の法は如来蔵の相である。如来蔵を見れば一切の法は見えず、すなわち如来蔵に身を潜めるのである。どの法が如来蔵でないと言えようか。全ては如来蔵の空性である。よって三界の世俗の法相はなく、善悪の相もなく、乱れた相もなく、対立する相もない。菩薩は常に畢竟空に遊行し、心は常に定にあって執着しない。もし執着があれば菩薩ではなく、もし一切の善悪の相を見れば菩薩ではない。
ゆえに私の心は優しく、柔軟極まりなく、言葉では言い表せない。
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