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日常法話

2018年03月29日    木曜日     第4開示 合計276開示

外法塵は実法なのか

問:如来蔵は実法、すなわち地水火風、十色(五根五塵)のみを縁とするのでしょうか。それでは、私たちが見る山の高低や木の大小は実法でしょうか仮法でしょうか。第八識はこれを縁とすることができるのでしょうか。もし縁としないならば、誰が器世間の差別、物体の大小形状といった形色の差別を生じさせているのでしょうか。

答:実法とは外五塵(色声香味触塵)を指しますが、外の法塵も含みます。例えば色塵上の形色・表色・無表色などです。つまり、外にある山の高低や樹木の大小も実法であり、如来蔵もこれを縁とします。なぜなら、如来蔵が一つの色法を生じる際には、単に色塵の顕色(色彩)を生じるだけでなく、必ず同時に色塵の形色・表色・無表色などの法塵を生じなければなりません。そうでなければ色塵は完全な色塵とはならず、色彩という一つの相貌しか持たないものになってしまうからです。声塵・香塵・味塵・触塵も同様に、全て外の法塵が存在します。

もし外の法塵がなければ、色塵は顕色(色彩)だけとなります。そうすると全ての色塵は色彩のみを持ち、形色・表色・無表色がなくなります。つまり形状・高低・大小・長短方円・厚薄がなくなり、品種や種類の差別相も、美醜・巍峨・挺拔・気勢・年輪・軟硬などの表色・無表色もなくなります。宇宙器世間の色塵も色彩の差別しか持たず、それ以外はぼんやりとした一片で、混沌として区別がつかなくなります。

こうなると業種が実現できなくなるだけでなく、如来蔵による万物の変現も極めて単純化されます。大千世界は色彩が華やかであるだけで形質が全くなく、実用価値も失われます。衆生が見るものも色彩の一片のみで、長短方円・大小美醜の区別がありません。そうなると一切の色塵物質は使用不可能となり、衆生はこのような器世間で生存することもできません。

実際には、如来蔵が色法を生じる際には、四大種子を用いて色彩・形状・姿態・品質・軟硬度などの内包を備えた様々な色法物質を完全に変現します。その後、衆生が色を見る時、如来蔵は外六根に依って完全な色塵(法塵を含む)を勝義根に伝導します。意根が主導して色を見ることで、眼識と意識が共同して完全な色塵を了別できるのです。これが「如来蔵は鏡のように像を現す」と言われるもので、現れる像は外色塵と相似相同です。外の法塵がないまま内法塵が現れることはありえません。

衆生の五陰色身も色法に属し、実法です。あらゆる形象を含み、母胎内に存在する時点から、全て如来蔵が自ら縁とするものです。もし外の法塵がなければ、人は色彩だけを持ち、四肢・頭顱・五根・性別・年齢・相貌・気質・高矮・胖瘦・学識・教養などの形色・表色・無表色がなくなります。如来蔵が色身を生じる際、色彩(顕色)だけを生じるならば、全ての人は人と呼べず、何であるかもわからなくなります。全ての色塵も何であるかわからず、世界は混沌とした一片で色彩だけが存在するという、ありえない事態になります。

したがって、形色・表色・無表色などの法塵も実法であり、如来蔵はこれを生じると同時に縁とし、それに依って内法塵を変現します。衆生が了別するのは完全な色塵であり、全ての情報が具足して存在します。無から生じた後に変現された内法塵ではありません。他の幾つかの塵も同様に、外の法塵が存在し、外の法塵に依って内法塵が生じます。内五塵に依って内法塵が生じるのではありません。

如来蔵は実法を勝義根に伝導して仮法と化し、意根がこれを縁とします。もし意根が関心を持ち詳細に了別しようとしても、自ら了別できない場合、如来蔵は根塵相触の処で六識を生じて了別させます。眼根と内色塵が接触する時、如来蔵はその中で眼識を生じます。耳根と声塵が接触すれば耳識を生じ、鼻根と香塵が接触すれば鼻識を生じ、舌根と味塵が接触すれば舌識を生じ、身根と触塵が接触すれば身識を生じ、意根と法塵が接触すれば意識を生じます。こうして六識が現行して内六塵を了別できるのです。

——生如法師の開示
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