衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月28日    水曜日     第1開示 合計270開示

『円覚経』における一切法皆清浄の真実義

円覚経に説かれる、すべての法は清浄であると。なぜか? 悪法も善法も、地獄も天宮も、世間の一切の法はすべて清浄である。なぜか? 仏を謗り法を毀つことも極めて清浄であり、僧を謗り塔寺を毀つことも極めて清浄である。もちろん仏を学び道を修める菩薩の六波羅蜜は、さらに清浄である。なぜならば、一切の法はことごとく如来蔵の妙用であり、そのものはみな空であるからである。たとえ空でなくとも、やはり清浄である。たとえば、人がプログラムを設計して衆生を屠殺する機械を作った場合、その行為には染汚が無い。なぜなら、それは心も意もなく殺生の業を作らず、自主性も無いからである。したがって、それは殺生の業を作ったことにはならない。その行為はプログラム設計に帰属し、設計者の意図に帰属する。

一切の法が空であることを証得した時には、地獄の業もまた空である。それゆえ地獄に堕ちることはない。たとえば幻術師が幻術で男女を現じ出す。これらの男女は、さまざまな善悪の業を作るが、業報は無い。すべての諸業はことごとく幻化であるゆえに、実質が無い。もし実質があるならば、それはすべて幻術師のなすところである。

もし幻術師が二人の人物を現じ出し、そのうちの一人がもう一人を殺したとしても、しかし殺す者も無く、殺される者も無い。その中の殺生の業もまた幻化である。幻化の主人はすなわち幻術師であるが、しかし幻術師は報いを受けない。実に殺す事実は無く、業を作る者も無く、報いを受ける者も無い。一切の法はことごとく幻化であり、どこに実体があろうか? 実体があると言う者は、迷い逆転している。それゆえ私たちは、夢から覚めた時に夢であったことを観じる必要は無い。覚めている時もまた夢である。あたかも夢の中で夢を観じるがごとく、すべては夢である。観じる者もまた夢であり、観じること自体もまた夢である! 一切の法はことごとく夢である。

——生如法師の開示
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