『円覚経』に説かれる如く、諸法は全て清浄である。何故か。悪法も善法も、地獄も天宮も、世の一切の法が清浄であるのは何故か。仏を謗り法を毀つことも極めて清浄であり、僧を謗り塔寺を毀つことも極めて清浄である。もちろん仏を学び道を修める菩薩の六波羅蜜は、さらに清浄である。何故か。一切の法は如来蔵の妙用であり、当体それ自体が空であるからだ。たとえ空でなくとも、それらは清浄である。例えるなら、人がプログラムで衆生を屠殺する機械を設計した場合、その行為には染汚が無い。なぜならそれは心も意もなく殺業を造らず、自主性もないからである。その行為はプログラム設計に帰属し、設計者の意図に帰属する。
一切の法が空であることを証得した時、地獄の業もまた空となり、地獄に堕ちることはない。例えるなら幻術師が幻の男女を現じた場合、これらの男女は様々な善悪の業を造っても業報を受けない。全ての諸業は幻化であるが故に実質が無く、もし実質があるならば、それは全て幻術師のなせる業である。
もし幻術師が二人の人間を現じ、その一人がもう一人を殺したとしても、殺す者もなく殺される者もない。その中の殺業もまた幻化である。幻化の主人は即ち幻術師であるが、幻術師は報いを受けない。実に殺す事実は無く、業を造る者もなく、報いを受ける者もいない。一切の法は幻化であり、どこに実体があろうか。実体があると言う者は、迷いと倒錯である。だから我々は覚めた時に夢を観て夢だと見る必要はない。覚めている時もまた夢である。あたかも夢の中で夢を観るが如く、全ては夢である。観る者も夢であり、観ること自体も夢である。一切の法は夢である。
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