衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月27日    火曜日     第3 回の開示 合計265回の開示

五識に五別境心所法はあるか

前五識には定心所が存在します。もし五識に定がなければ、眼識は多様な境に執着し、耳識は多様な境に執着し、鼻識は多様な境に執着し、舌識は多様な境に執着し、身識は多様な境に執着し、意識も必ずこれに従って多様な境に執着することになります。このようにして心は大いに乱れないでしょうか。五識に定がなければ、意識も定を得られず、意識は必然的に五識に従って所々で分別を起こし、こうして心は糸のように乱れやすくなります。

現に見るに、五識はそれぞれ一処二処に定まって散乱せず、微細なものを了別することができます。これは五識が定を有し、定と相応することを示しています。もし六識に定がなければ、意根が定まらないことを意味します。五識六識が境に執着するのは、意根が主導して縁を攀じる結果によるものであり、意根が境を見ようとしなければ、六識は境を見ることができません。したがって、もし意根に定がなく定と相応しないならば、修行は永遠に禅定を得ることができず、四禅八定も修めることができず、世人は欲界の人間界にのみ生きることになり、天上には衆生が存在しなくなります。

五識には了別の慧があり、五塵に対して判別と確認を生じさせ、五塵を明確に了別し判別することができます。従って五識には慧心所が存在します。五識の慧が強まる時、これも五識の定心所によって引き出されるものであり、定より慧が生ずるとはこの理です。同様に、意根の慧も大部分は定によって引き出され、特に煩悩を断じ、識を転じて智となった後の智慧は、更に意根の定心所によって引き出されます。五塵が究竟何であるかを確認できるということは、五識に勝解心所が存在し、五塵法の相貌を明らかにし勝解できることを示しています。

五識が五塵の境界に対して境を趣く性質と避ける性質を有することは、五識に欲心所が存在することを示します。例えば、眼識が柔和な色彩に遇えば能動的に趣向し、強烈なまぶしい太陽光に遇えば自然に回避するのは、眼識の欲心所です。耳識が耳障りな音声に遇えば極力回避し、柔和な軽音楽に遇えば心これを憧れます。鼻識が刺激的な臭気に遇えば回避の心を生じ、馨しい香気に遇えば境を趣き貪愛を生じます。舌識が美味に遇えば能動的に探し求めて境を趣き、刺激的な味に遇えば極力回避します。身識が軽触と妙触に遇えば境を趣き貪愛を生じ、逆らう強烈な苦痛の触に遇えば急ぎ避けます。以上が五識に微弱な欲心所が存在することを説明しており、意識の欲心所より遥かに微弱で、表れが明らかでなく、観察し難いものです。

五識はかつて慣れた境に対しても一定の念性を有し、この念性によって欲心所を有し、貪愛を生じて境を離れず、境に粘着して放しません。

五識は五別境心所法を具足していますが、ただ微弱であり、通常は五俱意識の五別境として現れます。しかし細かく分ければ、依然として識別可能です。総じて言えば、五識の現行と作用は依然として意根の制御と決定によるものであり、このため五識の欲心所は更に微弱で曖昧となり、意根の操作の中に覆い隠され、発見し難くなっています。

——生如法師の開示
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