衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月27日    火曜日     第4 回の開示 合計266回の開示

我見を断つ正義

我とは第七識たる末那識を指す。末那識は五蘊中の色蘊を我とし、受蘊を我とし、想蘊を我とし、行蘊を我とし、六識の識蘊を我とし、また自らを我とする。これにより我見が生ずる。六識は依他起性に属し、輾転として生起するもので、末那識の第七識に利用される一つの道具である。恰も五蘊全体と色身中の頭と四肢の関係の如く、五蘊は常に色身中の各部分を我とする。同様に、末那識は無始劫以来、五蘊中の各部分を常に我とし、当然第八識の功能作用をも我とするのである。

意識の我性は微弱で、末那識の我性の強大さに遠く及ばず、断じ易きものなり。概ね、意識は五蘊無我の理を薫習し、稍々思惟を加えれば理を明らめ得る。然るに末那識の思惟観察力は弱く、無始劫以来の無明厚く、その智慧を厖大に遮障する故、理を明らめ難く、末那識の我見は極めて断じ難し。古来、真に我見を断じたる者は極めて稀にして、鳳毛麟角の如し。仮に仏陀在世の時も、証果を得た者の比率は大ならざりき。故に我見とは主に末那識の我見を指す。我見を断ずるには必ず末那識自らが意識と共に無我の理を参究し、現量観察をもって五蘊が真に無我なることを観じ得て、始めて真に我見を断ずるなり。

若し単に意識が録音機の如く、文章を読誦暗誦する形式に依り、定中に深細なる思惟観行を行わざれば、末那識は永遠に薫習を受けず理を明らめ得ず。これは単に意識が文字の表面を浅薄に為すに過ぎず、多くは五蘊無我を解悟するに止まり、五蘊無我を実証するに至らず、故に我見を断ずること能わず。

我見を断ずるは末那識の自証なり。然らば明心証悟もまた末那識が真心たる第八識を自証するや。答えも亦同じ。無始劫以来、末那識は常に五蘊六識の功能作用を我とし、第八識の功能作用をも我とす。己が全く何者にも非ざることを知らず、一端は第八識に依頼し、一端は五蘊六識に依頼して、初めて己が所謂我の功能作用を有し、三界に生存し、其の虚妄なる我の功能作用を成就する所以なり。

然らば末那識に無明を断じ仏道を成就せしむるには、一方に五蘊の大樹を伐倒して其の依頼を無くし、他方に真実の第八識を証得せしめ、一切法が皆第八識の為す所にして己が功能作用に非ざることを知らしむ。かくして末那識は法界の実相を見極め、無明を少しずつ破り、我執と法執を漸く断尽し、徹底的に無我となり、遂には仏世尊と成るのである。

——生如法師の開示
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