住することのない心とは、すなわち自性清浄心であり、これを用いて日々を過ごすことは可能ではあるが、これを用いずに日々を過ごすことは根本的に不可能である。これは我々が主観的に用いるか否かを選択するものではなく、これなくしては誰も日々を過ごすことも存在することもできないからである。肝心なのは、これが如何にして我々に寄り添い日々を過ごさせるか、五識・六識・七識が如何に日々を過ごすかが最も重要であり、日々を善く過ごせば仏となり、過ごし方を誤れば三悪道に堕ちるのである。
もし心に住することなく日々を過ごそうとするならば、第七識の心を本心の自性の如く無住ならしめなければならない。これを成し遂げるには、まず住することのない本心を見出し、その無住のあり様を観察した上で、これに倣う必要がある。将来第七識が無住を実現すれば、修行は完成するのである。
仏法を明らかにしようとするならば、真心と妄心を分けて観察し、それぞれの体性・機能・作用・相貌を理解しなければならない。次に七つの識を分け、各々の機能・体性・作用・相貌を明らかにする。これによって自己と衆生を明鏡の如く照らし見ることができ、仏法をより透徹して理解することが可能となる。そうすれば、段階を追って仏法を証得することは困難なことではなくなるのである。
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