仏は意根が黙して一切の法を容れると説かれた。黙容は遍縁と等しい。最も重要なのは、第八識が単独で法を顕現し、法を執持することはできず、必ず意根を必要とする点である。もしそうでなければ、無余涅槃においても第八識が法を顕現し執持するならば、それは寂静ではない。意根は三界の法が現起する根本的な動力であり、あらゆる法の現起は意根の推動による。第八識が単独で作用することはあり得ない。これにより、一切の法には第八識の作用だけでなく意根の作用もあり、したがって意根は一切の法を縁とし、一切の法に意根が欠けることはない。
たとえ意根が受け入れたくない果報や、攀縁したくない業種であっても、意根が縁となることで第八識は業種を現行させる。もしそうでなければ、阿羅漢にまだ業種が残っている場合、無余涅槃において第八識は業種を現行させるべきである。もし現行させ得るならば、それは無余涅槃の境地ではなく、第八識が有為の業を造作することになる。
意識には単独の機能作用が一切なく、常に意根と結びついており、全て意根の協働による結果である。意識は意根から離れて独自に作用することはできず、故に意根の作用は極めて顕著かつ重要である。
人間の意識が発動する過程は、まず意根が念を動かし、作意した後に思心所が現れ、その後意識が念頭や考えを生じさせる。念が動くとは必ず意根が先に念を動かし、その後意識の念が現れる。意根の念がなければ意識の念もない。参話頭において最終的に意根を話頭に繋ぎ、念々忘れず朝に夕に思いを凝らすことで初めて参を破るが、これも意根が念頭を動かした結果である。意根が念を起こすとは、つまり作意である。念を動かすとは作意であり、用語が異なるだけである。
実のところ六識と第八識は常に二枚舌の芝居を演じており、六識の身口意行に第八識の痕跡を見出すことができる。同様に意根と第八識も二枚舌の芝居を演じており、意根の作用の中に第八識の痕跡を見出し、意根の作意・触・受・想・思の中に第八識の痕跡を認め、意根の全ての選択と主宰的機能作用の中に第八識の痕跡を発見できる。よって意根において悟りを開くことは、より深く直接的で、徹底的かつ究竟なものとなり、こうして発する智慧は最も深遠なのである。
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