一つのことに集中して経典を読むこと、思索を巡らすこと、そして物事に取り組むことは、すべて意識の定(サマーディ)である。しかしながら、もし意根(マナス)がこれに興味を抱かず、読書や作業に定まらず、書物の内容に専心して注意を向けなければ、意識は定まるだろうか。全く不可能である。意根が定まらなければ、六識(六つの認識機能)が定まるはずもなく、六識は猿のように散乱する。たとえ意識が絶えず専心して注意を向け続けても、無駄であり、依然として意根に引きずられて方々をさまようのである。よって意根を調伏することが修行の極めて重要な要点であり、聞(聴聞)・思(思索)・修(実修)・証(証悟)のすべてを意根に具現化してこそ、功徳が無駄にならず、必ず結果と果報が現れるのである。
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