衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年03月18日    日曜日     第1 回の開示 合計221回の開示

如何にして意根の執着を断ずるか

もし意根の執着性を降伏させることができれば、どこに座っても心は空々として、禅定が眼前に現れ、行住坐臥はあたかも虚空の中にいるかのようになる。執着が軽減されると身心も軽安となり、ゆえに空はまず意根を空とし、その後で意識が空となり、内心は空々として何もない状態となる。

五蘊に対する意根の執取性を除去しようとするならば、意根を禅定の状態においてゆっくりと細やかに、意識の観行に従わせ、意根に意識が観行思惟する内容をゆっくりと思量させ、意根が真に思量し明白となり、五蘊が確かに空幻であると確定したとき、五蘊無我を証得する。意識のみがこの理を知っていても、意根が確定せず肯定しなければ証得とはならない。意根に定がなく散乱攀縁しているときは、専心して法義を考慮することができず、証得は不可能である。意根に定があり散乱攀縁せず、心が専一で集中しているときこそ、思量観察が可能となり、ついに再確認して無明が断除される。

具体的な観行においては、まず色蘊が如何に生じ如何に滅するかを観じ、受蘊が如何に生じ如何に滅するかを観じ、ゆっくりと仔細に思量観察し、徐々に色蘊と受蘊の苦・空・無常を受け入れる。定がなければ、意識の思惟分析のみに留まり意根まで深く入ることができず、意根はこの理を受け入れず、むしろ抗拒することさえある。

想蘊の生起と滅去を観察する。例えば茶を飲むとき、茶味に対する了知性が如何に生じ如何に滅するかを観察する。音声を聞くとき、音声に対する了知性・執取性が如何に生起し如何に滅していくかを観察する。意根に一定の時間と精力を与え、ゆっくりと静かに意根に思惟思量させ、それに受け入れさせ、意識の現量観察に従って自らの思量を起こさせる。定があるとき、観行は意根に深く入り、すべての法は意根に受け入れ認可させ、その後で変化が生じる。意根は「目に見えるものが実在である」と見做す。

行蘊の生起と滅去を観察する。身口意行の出生と滅去、茶を取る・淹れる・飲む一連の行為はすべて行蘊である。行蘊が如何に生じ如何に滅し、如何に苦・空・無常であり、如何に無我であるかを観察し、その後で意根が肯定して我見を断除する。その後の修行は徐々に我執を断除していくことである。観行には禅定が必要であり、定中において意根に充分な時間と精力を与えて法を思量させ、自ら五蘊の無我性を証明させる。意根が至る所で攀縁し非常に忙しい状況下では、意識が熏習した法義に従うだけで、思惟確認する精力は全くない。

識蘊の生起と滅去を観察する。眼が色を見るとき、眼識が如何に生起し如何に滅するかを観察する。声を聞くとき、耳識が如何に生起し滅していくかを観察する。一つの識ずつこのように観察し、六識の生滅・幻化・無常・苦・空・無我を観察する。必ずゆっくりと細やかに観察し、意根に深く入り、意根に共に思考観察させ認可させる。意根が一旦認可すれば、徐々に五蘊への執取を緩めることができ、我執の断除に希望が持てる。

——生如法師の開示
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