衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年01月17日    木曜日     第2開示 合計1183開示

周利槃陀伽、定を修して果を証するの啓示

世俗法の中に「制心一処、事と成さざるなし」という言葉があります。考えてみてください、錐の先が地面に刺さるのと、一枚の板が地面に刺さるのと、どちらが深く刺さるでしょうか。答えは間違いなく錐の先です。定を深く修するのはまさにこの理です。心が一つの境地に住し、心力が専一に集中して散らばらず、定心が深く入れば、一つの義理を細やかに思惟し、その義を貫通させることができ、それによって智慧が生じます。定がないとき、心はあの木の板のように、面積が大きく、力が散らばっているため、土の中に深く入ることができません。定を修するというのは、心を一処に縁らせ、精力を集中させることであり、こうしてはじめて事と成さざるなしとなるのです。

定を修する一つの特例がありますが、それは心念が専一で定力が深ければ、仏法を証得し、智慧を獲得できることを証明しています。釈迦仏に周利槃陀伽という弟子がいましたが、前世の業縁によって感招された果報により、頭が非常に愚鈍で、学んだ後には前のことを忘れ、学ぶ前には後のことを忘れ、一つの言葉を学んでは一つの言葉を忘れてしまいました。世尊は彼がこのように愚鈍であるのを見て、憐憫の心を生じ、「掃帚(そうほう)」の二文字を念じるよう教えました。周利槃陀伽は毎日何をしていても、心の中で「掃帚」の二字を念じ続け、ついに心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) に落ち着き、禅定の中で小乗の理を思惟できるようになり、最後には四果阿羅漢を証得しました。周利槃陀伽は「掃帚」を念じ、心に雑念がなく、この定力をもって世尊の説かれた仏法の道理を思惟し、証果したのです。だからこそ、私たちが定を修するにも、心を一境に住まわせ、心を一念に縁らせ、長くこれを続け、粘り強く進めていけば、定力が生じ、最後には観行 (vipaśyanā-caryā) 思惟が成功するのです。この一境一念は、一句の仏号でも、一つの呪でも、あるいは一つの短い経でも構いません。何をしていても心中に経や呪があり、念仏 (buddhānusmṛti) であり、心中から人間界への貪執を捨て去れば、定力は必ず生じるのです。

——生如法師の開示
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