世俗の法に「心を一処に制すれば、何事も成らざるはなし」という言葉がある。錐の先端が地面に深く刺さるのか、それとも板切れが地面に深く刺さるのかを考えてみよ。答えは明らかに錐の先端が深く刺さる。深く禅定を修めるのもこの理である。心を一つの境地に置き、心力を分散させずに専一に集中させれば、禅定心は深まり、一つの義理を細やかに思惟することでその真意を貫通し、智慧が生じる。禅定がない時、心はあの板切れのように面積が広く力が分散しているため、深く土中に入ることができない。禅定を修めるとは、心を一つの対象に縁起させ、精力を集中させることであり、そうしてこそ何事も成し遂げられる。
禅定修行の特例として、心念が専一で禅定力が深まれば仏法を証得し智慧を得られることを証明する話がある。釈迦仏に周利槃陀伽という弟子がいた。前世の業縁による果報で非常に愚鈍であり、習えば前を忘れ、学べば後を忘れ、一言覚えれば一言忘れた。世尊は彼がこのように愚かなのを見て憐れみを起こし、二字「箒(ほうき)」を唱えるよう教えた。周利槃陀伽は毎日何事をするにも心の中で「箒」と唱え続け、ついに心が清らかになり、禅定の中で小乗の理を思惟できるようになって、遂に四果の阿罗汉を証得した。周利槃陀伽が箒を唱え、心に雑念がなかったこの禅定力によって、世尊の説かれた仏法の道理を思惟し、証果を遂げたのである。ゆえに我々も禅定を修める際には心を一境に置き、一念に心を縁起させ、長く続け忍耐強く実践すれば、禅定力は生じ、最終的に観行思惟は成功する。この一境一念とは、一句の仏号でも、一つの陀羅尼でも、あるいは短い経典一巻でもよい。何をしていても心中は常に経文や真言、念仏であり、人間界への執着を捨て去れば、禅定力は必ず生じる。
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