楞厳経第六巻にて、仏は説かれた:阿難よ、汝は常に我が毘奈耶の中で修行の三決定義を説くのを聞いている。すなわち、心を摂めることが戒であり、戒によって定が生じ、定によって慧が発する。これを三無漏学と名づけるのである。
毘奈耶とは経律論の三蔵の一つであり、仏の説かれた戒律である。また自心を調伏し、身口意を調える意味でもあり、身口意の作業を和らげるのである。調伏の結果、煩悩を降伏して断除し、心に漏れなく、身口意ともに漏れなく煩悩なく、煩悩の習気なく、無明なく、ついに仏と成ることができる。
なぜ心を摂めることが戒なのか。どの心を摂めれば戒が成就するのか。心を収摂しない時、身口意は妄動・乱動する。身は、すべきでないことを無理に行い、行くべきでない場所に無理に行き、動くべきでない時に無理に動く。そうして深刻な場合は殺生・盗み・邪淫の業を造作し、禅定は成就できない。たとえ軽微な身体の乱行・妄動であっても禅定はありえない。なぜなら身体が定まらなければ、禅定は不可能だからである。
心を収摂できない時、口は妄説・乱説し、言うべきでないことまで言い、言ってはならないことまで言う。深刻な場合は妄語・綺語・両舌となり、是非を弄り、五戒十善に違犯する。こうして心が清浄でなければ、禅定は不可能である。たとえ五戒十善に違犯しなくても、口が乱説するため口行が多く、心は確かに乱想している。心行が多く、心が寂止しなければ、禅定は不可能である。
心を収摂しない時、意業は確かに清浄でなくなる。考えるべきでないことを考え、思うべきでないことを思い、覚えるべきでないことを覚え、観るべきでないことを観る。こうして貪・瞋・痴の煩悩が必ず現前し、心の水が濁って、どうして定があろうか。
考えるべきでない人を無理に考え、慮るべきでない事を無理に慮り、掛けるべきでない情を無理に掛ける。どうして心が寂止できようか。誰を考えるべきでないのか。ある者は情が多く、内心に常に他の人の影像を掛け、払っても払えず、呼べば即ち来て、拭っても拭い去れない。こうしてどうして禅定がありえようか。座禅する時、これらの影像は必ず自心を遮障し、観行思惟を遮障し、寂静を遮止する。どうして定があろうか。もしこれらの影像を仏菩薩の影像に換えれば、仏菩薩の加護により心が清浄になり、直ちに禅定が得られる。
ある者は心を摂めず、己に関係のない事柄、人のためにならない事を念念に心に留め、時々忘れず、事々に心を掛ける。心に満ち満ちて隙間がなく、心の水が激しく沸き立ち、騒がしくどうして定があろうか。心を収摂せず、常に財・色・名・食・睡を掛け、六塵の縁影が重なり合い、心が空でなく、物に覆われて、どうして禅定がありえようか。
多くの人が禅定がうまく修められないと嘆くならば、自分自身を点検すべきである。いったい何が原因で禅定が修められないのか、心にいったい何が遮障となっているのか、それらを掘り出し解決すれば、心が空になり、禅定は自然に容易に成就する。禅定に影響するのは貪・瞋・痴の煩悩であり、心が世俗法に執着して捨てようとせず、何もかもを真実と見なし、有用な物と見なす。掴み取らずにはいられず、死んでもこれらの世俗法を執取する。こうしてどうして定があろうか。
こう説いた後も、なお多くの人は自己点検ができず、自分自身の心にいったい何があるのかを知らない。なぜなら心が境界に流され散じることに慣れ、境界と貼り付きすぎて離れられず、境界の外に跳び出て自心を観察することができないからである。こうしてどうして観察の智慧がありえようか、どうして自心の煩悩や習気を観察できようか。輪の外、境界の外、心の外に跳び出て、自心を観察して初めて観察の智慧が生じ、観照力が得られる。以前には発見できなかった事相を発見でき、初めて自心に対治し、自心を捻転する方法が得られ、自心を降伏する力が得られるのである。
今まずなすべきことは、心を境界から離し移すことである。心は心、境は境、人は人、物は物とし、諸法はそれぞれ法位に住し、自心とは互いに関係なくする。心が境を離れれば、覚照力が強くなり、諸法の実相を悟りやすく、禅定は自然に増長し、智慧は自然に現起する。
以上は戒によって定が生じる原理について述べた。自心を収摂することが戒であり、心が非を起さないことが戒であり、心が乱想・乱思・乱動・乱択・乱造作しないことが戒である。この心は主に第七識の意根を指す。意根の触・作意・受・想・思は、六識の作意・触・受・想・思を引き起こし、六識の身口意行の散動を引き起こす。意根を収摂することは、身口意行の総スイッチを制御することに相当し、将軍や指揮官を降伏させることに相当する。そうすれば配下の六識の兵士は従順に従い、おとなしく乱動しない。どうして禅定がないことを憂えようか。
修学で最も重要な点は、定によって慧が発することである。「発」は生じ引き出す意味である。仏陀は我々に示された、心は禅定の定力によって、心が定まれば力が生じ、この力が智慧を生じ引き出すと。あたかもある種の力が芽を土から押し出すように、押し出されることを生じる、発すると言う。智慧は禅定の力によって、心から押し出され、生じ引き出されるのである。禅定がなければ心に力がなく、智慧を生長させることができない。
仏陀が我々に残された宝蔵は、戒定慧の三無漏学である。もし我々が戒を持ち定を修めることができないからといって、前の二つの宝蔵を捨て去り、これらは役に立たない、一つの宝蔵で十分だと言うならば、我々は考えてみよ。我々は敗家子ではないか。仏陀の伝家の宝を損ない、顧みず捨てる。我々はまだ仏陀の弟子であろうか。仏陀の家宝を守護しなければ、我々は仏陀の孝子賢孫ではない。前の二つの宝蔵がなければ、最後の一つを持つことはできない。最後の一つはたとえあったとしても、それは偽物であり、真の智慧ではない。
戒について展開して説けば、言い尽くせない。定について展開して説けば、やはり言い尽くせない。慧について展開して説けば、さらに言い尽くせない。帰するところ、戒定慧は浮浅な六識心の戒定慧から、根源的な第七識意根の戒定慧に至って、初めて真の戒定慧となる。真の戒定慧は心戒・心定・心慧であり、単なる表面の六識の身行や口行ではなく、単なる意識の心行ではなく、第七識意根の心行の問題である。意根の心が収摂され、非を起さず乱動しなければ、必ず智慧が生じる。意根の戒定慧は一切の法を統領し、最後には必ず意根の戒定慧によって究竟の仏と成るのである。
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