粗色(ごしき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)の五塵(ごじん)がなければ、これら五塵によって生じる微細な法塵(ほうじん)も存在しません。粗い五塵から生じる微細な法塵を「法処所摂色(ほっしょしょじき)」と呼び、これも色法(しきほう)に属しますが、粗い五塵よりはるかに微細です。粗い五塵は実体ある地・水・火・風の四大(しだい)物質粒子によって形成されますが、粗い五塵から現れる法処所摂色は極めて微細です。この微細さは次の比喩で説明できます:私たちの肉体は粗い四大によって形成され、中有の身(ちゅううのしん)・鬼神・天人の身体は微細な四大によって形成されます。微細な四大で形成された身体と粗い四大で形成された身体には大きな差があり、粗い身体は重く沈んで漂うことも飛翔することもできず、神通(じんつう)も神足通(じんそくつう)もありません。一方、微細な身体はこれとは正反対であり、これはまさに顕色(けんじき)と五塵上の色(法処所摂色)の違いに相当します。
例えば鏡は、前にどんな物があってもそれを一つ残らず映し出します。鏡は勝義根(しょうぎこん)の比喩には用いられませんが、如来蔵(にょらいぞう)の比喩には用いることができます。如来蔵はあたかも鏡のようであり、あらゆる五塵が到来すれば、それをすべて「照らし」映し出します。例えば眼前の色塵(しきじん)は遠近を問わず、四方八方の音声、周囲の香塵(こうじん)は粗細・香臭・遠近を問わず、如来蔵は同時にすべてを摂受(せつじゅ)し、ことごとく「照らし」映し出すことができます。色・声・香・味・触の五塵、および無量の五塵の類が私たちに向き合う時、如来蔵はそれらを同時にすべて摂受し、完全に映し出し、同時に影像を形成することができます。これが如来蔵の作用なのです。
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