眼の浮塵根が外色塵と接触するとき、色塵の四大微粒子を摂取できるのは実は眼根ではなく、如来蔵です。眼根はちょうどカメラのように、単なる道具であり、道具に過ぎません。如来蔵は眼根という道具を通して、外色塵上の四大微粒子を摂取し、それを摂取した後、眼根、眼球、硝子体、視覚伝導神経を経て、後頭部の眼根の勝義根に到達し、直接そこに外色塵の影像を形成します。そのうち、色彩は色塵の顕色に属し、法塵は法処所摂色であり、形色、表色、無表色を含み、これら三つを合わせて法塵となります。
色彩は比較的単純で、複雑ではないため、眼識は比較的速く了別できますが、法塵は比較的複雑で、了知し認識するのが難しく、したがって了別の時間は相対的に長くなります。第一刹那に顕色が眼根と接触した後、如来蔵は眼識を生じます;第二刹那に意根が法塵と接触した後、如来蔵は再び意識を生じます。こうして、第一刹那に眼識が了別し、第二刹那に意識が了別するという関係がちょうど対応します。その後、眼識と意識が共同で色塵を了別し、こうして了別されるのは完全な色塵です(これは第三刹那以降のことです)。
なぜ第一刹那に必ず先に眼識が生じて顕色を了別し、その後で意識が形色、表色、無表色を了別できるのでしょうか。なぜなら、顕色は必ず先に形成され存在しなければならず、そうすることで形色、表色、無表色が現れるからです。これらの三つの色法は顕色を基礎としており、例えば形色の中の大小、方円、長短は、もし顕色の色彩がなければ、大小、方円、長短を表示することは不可能です;表色は顕色と形色に依って初めて現れ、顕色と形色を基礎とします;無表色は顕色、形色、無表色に依って初めて現れ、顕色、形色、表色を基礎とします。したがって、先に顕色があり、眼識が先に生じて顕色を了別し、意識が後に生じて法塵を了別するのです。
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