多くの人々は仏法を修学した後、世間法における利益の追求から、仏法修学上の利益の追求へと転じます。内心の我は絶えず、我執は断たれず、我見と我執を増長させます。より多くの弟子を欲し、より大きな権力を欲し、より高い名声を欲し、より多くの衆生の恭敬を欲する――全ての目的は心理的な快適さを求めることです。しかしこの心の快適な覚受に実質的な意義はあるでしょうか。衆人に称賛されれば快適だと感じますが、この快適な覚受は意識心の感覚であり、この意識心は生滅幻化するもので、もともと虚妄であり、長く存在することはできず、生じては滅し、日夜断滅するものです。
真の修行者は、常に心を静めて絶えず自心を観照すべきです。私はいったい何を求めているのか。金銭を掴もうとする目的は何か。現在、享受や覚受を貪る目的は何か。何か意義があるのか。どんな過失があるのか。私には様々な欲望があるが、これらの欲望の結末はどうなるのか。自らの内心を見極め、勇敢に自心に向き合い、仏法修学の最終目的が何であるかを明らかにし、如何に理法にかなって仏法修学を通じてこの目的を達成し、最終目標に背かないようにすべきかを理解しなければなりません。もし内心に求めるものがなければ、速やかに目的を達成できるのに、私は何を求めているのか。常に自問すべきです。何を求めているのか。争い奪い合って何を図っているのか。解脱を得られるのか。実質的な意義はあるのか。求める全ては如来蔵が幻化した影像ではないのか。求めては失い、あるいはより多くを失うのではないか。このような理にかなわない作意と追求は、束縛の枷をより多くするのか、それとも解脱の功徳受用をより多くするのか。
人はより多くを得ようとすればするほど、往々にしてより多くを失います。私たちが仏法を学ぶのは心の負担を軽減するためであり、世間の虚妄相に目を眩まされてはなりません。他人を見るには明瞭に見、自分自身を見るにはより一層明瞭に見て、常にこのように自らを観照しなければなりません。もし仏法を学びながら相に貪り、心で努力せず、相への貪着によって世間で争い奪い合い、自らの魂を売り、心に背くことを行えば、自らの煩悩と心の負担を増すだけです。仏法を世間の利益争奪の道具、個人の貪欲の道具、他人を圧倒する道具として用いることは、実に罪過であり、禍いは計り知れません。修行者がもし自らと衆生の心の煩悩を軽減する方法を考えず、かえって煩悩の上に層々たる枷を増し、さらに様々な不善業を造作するならば、こうして仏教と衆生に災いをもたらし、生を求めながら反って堕ち、得るものより失うものが多く、実に無智の行いです。速やかに悔い改め、罪の呪縛を除くべきです。
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