衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月13日    火曜日     第2開示 合計197開示

我見を断つことの重要性

西方に一つの哲学思想がある:我思う、ゆえに我在り。ここでの「我」は、一方では思惟する意根の我を指し、他方では思考する意識心の我を指す。私は思考し、私は了別し、私は分析し、私は打算し、私は判断し、私は思慮し、私は了知するなど。この「我」は意識心の我であり、彼は常に了知している:今日私は何をしているか、私は食事をし、私は歩き、私は了別し、私は本を読み、私は思惟し、私は思考し、私は観行し、私は参禅し、私は仏を拝み、私は仕事をしているなど。

さて、この全体としての「我」は、様々な因縁によって初めて現れるものであり、必然的に多くの因縁条件の制約を受ける。この「我」はまさに生滅を繰り返す仮の我であり、決して真実の我ではない。この「我」は第八識によって幻化された空ろな殻であり、その表面が持つ機能作用はすべて第八識から与えられたものである。もし第八識に識の種子がなければ、もし第八識が造作に協力しなければ、これらの分別性などの機能作用はすべて消え失せて存在しなくなる。そうなれば意識は生滅する虚妄の、幻化された空のものであり、すなわち「我」ではないのである。

私たちははっきりと認識すべきである:今まさに語っているこの我、物事を考えているこの我、行動しているこの我は、すべて因縁によって生じたものであり、すべて生滅するものである。したがって、それらはどれも「我」ではない。こうして私たちは意識を以て「我」とする我見を断つのである。世の中のすべての哲学者、思想家は、思考する意識を「我」と見なしており、みな我見を断っていない凡夫であることがわかる。たとえ天人の場合でも、欲界・色界・無色界の三界の天人、最高天である非想非非想処(ネヴァサンニャーナーサンニャーアーヤタナ)の天人を含め、やはり意識心を「我」とし、真実で永遠に不滅の「我」と見なしている。したがって彼らは必然的に生死輪回を繰り返し、苦悩に満ちている。我見を断つことがいかに重要かがわかるであろう!

私たちは今生において、いかなる代償を払うにせよ、必ず我見を断除しなければならない。我見を断った後は、生々世々にわたって無限の利益を得ることができる。したがって、私たちの心はできる限り世俗法を捨て去るべきである。これらの世俗法は対応するだけでよく、真に受けてはならず、執着してはならず、ましてや執取してはならない。心で捨てられるだけ捨て、きれいさっぱり捨て去るのが最善である。そのうえで改めて仏法を掴み取るのである。あなたは仏法を執取しても構わない。どれほど仏法を執取しても問題ない。なぜなら生死の問題はすでに解決されており、仏法はさらに私たちを仏道へと成就させてくれるのだから、どうしてそうしないことがあろうか!

——生如法師の開示
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識心の我は仮我

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八識心王体性皆微妙甚深

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