問:座禅中に自己を空じ、一心に「空」を観ずることは可能でしょうか?
答:空をどう観ずるというのでしょう。その「空」という概念すらも存在として執着するなら、それは頭上に頭を据えるようなものです。空の境地に住すること、あるいは空の心で静座することは、純粋な禅定に過ぎず、智慧を生じることはありません。六祖壇経において六祖大師が明確に論破された通り、書物を読む時は明瞭に理解できても、実践段階になると混乱するものです。禅定の中に法義を観照せず、観行せず、疑情を起こさなければ、智慧は生じません。例えば念仏三昧の場合、いかに深く定に入ろうとも、その中に疑情がなく、観行がなく、参究がなければ、どうして智慧を生じて我見を断じたり明心したりできましょうか。
観行とは何か。世俗の事柄において、人や出来事を多く経験するにつれ、次第に見通しがつき、やがて執着しなくなるようなものです。観行も同様に、繰り返し観じることで次第に見極めがつく。見極めるとはどういうことか。人と長く接すればその本性を理解し、取捨選択ができるようになり、付き合いを続けるか否かを決めるように、自己を観察するのも同じことです。五蘊の身心を絶えず観行すれば、時が経つにつれ五蘊を見極めることができます。道理は全く同じです。智慧ある者は早く見極め、智慧乏しき者は来世を待たねばなりません。しかしこの基礎は必ず築き、修行の功夫は必ず為さねばならないのです。
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