問:末法の時代において、私たちはどのように戒律を守るべきでしょうか。初心の仏教徒は五戒と八戒を守り、長く修行を積んだ菩薩は有相戒を守る必要がなく、相を捨てて分別せずに直接に大乗菩薩の無相の心地戒を守ることができるのでしょうか。
答:まず、初心の菩薩と久修(長く修行を積んだ者)の概念的な内実を明確にする必要があります。どの段階の者が初心に属し、どの段階の者が久修に属するのか、それぞれの特徴は何か、心の状態はどうかということです。
久修の菩薩は、多生多劫にわたって菩薩として修行してきたため、菩薩の習気(習慣的な性質)を持っています。生まれながらに煩悩が非常に軽微であるか、あるいは煩悩がなく、身・口・意の行いが清浄で、人に教えられずとも自ずとそのようになり、さらに無意識のうちに習慣的に衆生を善へと導くことを好みますが、それは自己顕示のためではなく、完全に衆生が悪を捨て善に向かうことを願ってのことです。菩薩が生まれながらに煩悩が軽微であるか無いのであれば、それは地上の菩薩(悟りの段階に達した菩薩)が再来した者だけが可能であり、前世ですでに煩悩を断じていて、今世では隔陰の謎(生まれ変わりによる記憶の遮断)があるため、ごく稀にごく軽微な煩悩が生じる場合があり、これは煩悩習気と呼ぶべきものです。
久修の菩薩は生々世世にわたって菩提を証悟しており、今世で仏法に出会うと、自ずと前世の修行の慣性と方法に従って修行し、速やかに禅定を生起させ、間もなく自ずと証果し、再び明心開悟(心の本性を悟る)することができ、困難ではありません。証果と明心の後、速やかに前世の証量(悟りの境地)と繋がり、果位(悟りの段階)は前世の果位のままであり、禅定も前世の禅定のままです。もし修行を継続すれば、道業(悟りへの道程)は急速に進みます。衆生を教化する面では、その場で学びその場で習う必要がなく、自ずと衆生を如何に教化するかを理解し、衆生を貪・瞋・痴(三毒)へと導くことはなく、衆生の煩悩を甘やかすこともなく、ごく自然に厳格な師となり、弟子に対して高い基準と厳しい要求を課します。
このような久修の者だけが、効果的に大乗菩薩の心地戒を守ることができます。なぜなら、心の本性がすでに清浄であり、仏陀が制定した有相戒(形のある戒律)、例えば五戒や八戒をわざわざ守る必要がなく、自ずと戒を犯さず、身・口・意の行いが清浄だからです。初禅以上の禅定があり、煩悩が断たれ、心の本性が清浄であるという基盤の上に立って初めて、無相の心地戒を守ることができ、心は戒の相(形)に束縛されず、心の清浇に影響しないことなら何でも行うことができ、その目的は衆生を救済することで、自らの貪欲に従うことではありません。
もし菩薩の心の中にまだ貪欲があり、瞋恚(いかり)があり、愚痴も甚だしいならば、厳格に有相戒を守らなければなりません。五戒や八戒を一条一条厳格に守り、犯さないように努め、犯したならば心を痛めて発露懺悔しなければなりません。特に菩薩戒は、より一層厳格に守って犯さず、少しも自分を甘やかしたり妥協したりしてはいけません。貪・瞋・痴の煩悩が一つも断たれていない菩薩、特に最も基礎的な未到地定(初禅に至る前の禅定)すらない菩薩は、無相戒を守る資格がなく、そもそも無相戒を守ることなどできません。なぜなら、心の本性が清浇でなく、起こる心や動く念がすべて煩悩と相応しているからです。有相戒をしっかり守り、様々な事相(具体的な事柄)から一歩一歩自らの心を律して逸脱しないようにし、初禅定が生起し、煩悩が断たれて初めて、相を捨てて心の本性の清浄を守ることを試み始めることができるのです。
もし上記の久修菩薩の特徴を持たないならば、すべて初心の菩薩に属し、厳格に有相戒を修持し、身の行いと言葉の行いを律することを放棄して、勝手気ままに振る舞い、自らの貪・瞋・痴の煩悩に従ってはいけません。肉を断てない、酒を断てない、葷腥(肉・魚・臭いの強い野菜)を断てない、どうしてもこうした口福を享受したいという理由で言い訳をする者がいます。「私は相を取らず分別しない、私は心地戒を守っている。葷腥を食べても心には葷腥の相を着けない」と。それならば、なぜあなたは大便を食べないのですか? なぜあなたは好き嫌いをし、毎日おかずの種類を変え、繰り返し出されると食べないのですか? 一年365日同じものを食べても飽きることはなく、よく知って足ることを知るべきです。春夏秋冬の四季でそれぞれ一着ずつ服で十分であり、喉が渇いたら水を飲めばよいのに、なぜそんなに気を使うのですか? 他人の口や胃に入るわけではないのに?
現代の仏教修行者は、まことに嘆かわしく、哀れであり、憎むべきです! 明らかに善根が浅く乏しいのに、久修の菩薩を自任し、明らかに五戒・八戒・菩薩戒を守ることができないのに、「無相の心地戒を守る」と声高に叫び、少しも自覚がありません。皆、高尚で大げさなスローガンを叫ぶ者ばかりです。このままでは必ず仏教は衰亡し、成就する者はいなくなるでしょう。世尊(釈尊)が自ら説かれた戒・定・慧の三無漏学(煩悩を漏らさない三つの学び)を、今まさに戒学と定学を廃棄し、ただ乾慧(智慧のみで定力を伴わない)の慧学だけを求めようとしています。一人ひとりが仏法を語るときは、弁舌さわやかで筋道が立っていますが、実際には何の修行の成果もなく、理想ばかり高く実力が伴いません。これが現代の仏教界の乱相であり、正されることはないでしょう。なぜなら、衆生の強大な慢心(傲慢な心)によるものだからです。
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