意識の生起の因縁は、意根が法塵に触れることによる。第八識は根と塵が触れ合うところで意識を生じ、根・塵・識の三者が和合して触れることで、意識は法塵を了別し始め、それによって分別心が現起し、分別作用がこうして生じる。六識の中で、意識の活動範囲は非常に広範であり、私たちが気絶していない覚醒状態、真に眠りに落ちていない覚醒状態には、常に意識心が存在し、活動し、運作している。したがって意識活動の範囲は確かに非常に広く、私たちの現在の身口意の行為が現起するその一瞬一瞬に、意識の現行がある。意識の体性とは「私が思惟し、私が了別し、私が観照し、私が反省する」というものであり、私たち(意根を指す)は往々にして意識を私と見做す。この「私」という表現が最も顕著で、最も強烈である。
誰が意識を私と見做すのか。一つは意識自身であり、最も主要なのは意根である。それは深刻に意識を私と執着し、意識の全ての機能作用を私と見做す。意根は遍計所執性であり、普遍的に対象を計度して一切の法を私と執取し、私の所有とする。それは第八識を私と執取するだけでなく、六識をも私と執取し、一切の法が全て私であり、私に帰属すると執取する。その貪執性は特に大きい。私たちの身口意の行為のあらゆる活動において、一つ一つの思考作用、一つ一つの心理作用は、全て意識の機能作用である。分別作用、思考作用、判別作用、反省作用、観照作用などを含む。思惟の作用は、世俗法を思惟するにせよ、仏法を思惟するにせよ、話頭を参究するにせよ、全て意識心が作用を起こしており、意識の用途が相当に広範であることが分かる。
我見を断つには、意識の生滅性と虚妄性を思惟観行し、意識生起に必要な様々な縁を思惟し、縁によって現起する法が必ず空幻で生滅するものであることを了知しなければならない。意識心が現起するその一瞬一瞬には、様々な縁が必要であり、様々な助縁があって初めて意識は生起し、活動することができる。もし助縁がなければ、意識心は現前せず、断滅の状態に陥る。もう一つの方法は、意識心全体の生滅現象から意識の虚妄を思惟することである。意識が形成された後、表面的には連続しているように見え、意識心の分別作用もずっと存在しているように見える。実際にはこれらの作用は全て虚妄であり、生滅し、断続的である。以下の五つの状況では、意識は必ず断滅する。すなわち、真に死亡する時、昏睡状態にある時、夢のない睡眠状態にある時、無想定に入る時、滅尽定に入る時である。
思惟によって導き出される結論は次の通りである:因縁によって生じた法は全て虚妄であり、生滅し、空であり、私ではない。この観念の形成も容易ではなく、無始劫以前からの誤った思想観念を覆して初めて、現在の如理・如実の思想観念を確立できる。これ以後は、もはや縁生法を真実と誤認することはなく、これが我見を断つことである。
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