我々は観行を思惟しよう。今まさに思慮している心、物事を了別している心は、どのような因縁によって生じるのであろうか。これらの縁がなければ、この分別心は存在しないのであろうか。これらの縁がなければ、今の思考力はなくなり、今の了別性もなくなる。このように思考を重ねることで、この心がいかに虚妄であり、いかに不実であるかを知ることができるのである。徐々に思惟を深めた後は、もはや思惟し了別する意識心を我と誤って認めることはなくなる。最も良いのは、定力を保った状態で思惟することであり、そのような思惟は深く細やかであり、意識と意根はこの理を容易に認め、もはや意識を我として執取せず、それによって我見を捨てるのである。
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