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煩悩无尽誓願断
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日常法話

2018年03月12日    月曜日     第4開示 合計192開示

意識を我とする我見を断ずる(四)

さらに、耳識と共にある意識心がどれほど虚妄であるか、どのように生滅するかを分析し思惟する。私たちが音を聞くときには、必ず意識が参加しなければならない。意識はこの音がどのような音に属するか、その源はどこか、自分からどれほど離れているか近いか、音の内包は何か、音の粗細はどれほどか、男性の声か女性の声か、物体から発せられた音か宇宙で発生した音か、自分にどんな影響があるか、この音をどう処理し対処すべきかなど、これらすべてが意識心が了別し処理する内容である。

耳識と同席する意識心が現起するには何が必要か。その現起には耳根、耳識、第八識、意根、意識自身の識の種子、そして外界の音が必要である。これらの条件が具足して初めて私たちは音を聞くことができ、この音に対して分別、了別、判断、分析、思惟、打算を起こし、様々な喜びの心、貪りの心、嫌悪の心が生じ、様々な心緒が生起するのである。これらすべてが意識心の機能作用である。

この意識心の生滅性を分析し思惟する。もし外界の音が消えれば、意識心はこの場所の声塵を了別できず、別の場所に移って分別し、ここで声塵を引き続き分別することはない。もし一つの縁が欠けるならば、例えば耳根が毀損すれば、耳識心も存在しなくなり、意識心もこの音に注意を向けることができなくなる。この意識心がいかに虚妄であるかがわかる。外界の音はすべて様々な因縁によって生起するものであり、外界の音がなければ意識心も現起できない。もし識の種子がなければ、意識心も現起できない。もし意根が法塵に興味を持たず、この声塵に対して作意を生じなければ、意識心も現起できない。もし人が眠くなったり昏睡したりすれば、意識心も現起せず、私は音を聞くことができなくなる。そうすると、私が音を聞き、音を分析し、音の内容を思惟するこの意識心もまた生滅するものであり、無常であり、因縁によって生じたものである。したがって意識心は私ではなく、生滅を繰り返すものであり、決して私ではありえない。

——生如法師の開示
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