身識と共にある意識心について、この意識心が現れ出るためには、身根が完全であることが必要です。身根が損なわれていない状態、すなわち私たちが麻痺していない状態が求められます。意識が現れる縁としては、身根の存在、身識の存在、意根の存在、第八識の存在、意識自体の種子、そして触塵が必要です。触塵には外触塵と内触塵があり、外触塵は外界の物体が発するもので私たちの身体と接触し、その後第八識によって内相分の触塵へと転現されます。内触塵は私たちの色身内部で生じる触塵であり、例えば飢え、渇き、満腹、空腹、疲労、快適さなどがこれに当たります。これらの条件が整って初めて、私たちの意識心は第八識によって現出され、身体内の触塵を了別できるようになるのです。つまり、今自分が空腹かどうか、渇いているかどうか、疲れているかどうか、どこが痛むか、どこが快適か、どこが気持ちよいか――これらはすべて意識が身体上の触塵を分別している働きです。
意識は身体外の触塵も分別します。例えば日光が身体に当たってどの程度温かいか、どの程度穏やかか、風が身体に当たってどの程度優しいか、あるいは風が身体に当たってどの程度激しいか、物体が身体に当たってどの程度痛むか、様々な触塵の感受を分別するのも、すべて意識心の作用です。もちろん身識もそこに共同して作用しており、意識はどのような触塵であるか、良いものか悪いものか、その影響と結果は何かを分別します。そして様々な思想活動が生起しますが、これらはすべて意識心の思想活動です。これらの思想活動は一定の条件に制約されており、もしこれらの条件が失われれば、思想活動は現れ出ることができません。したがって意識は生滅するものであり、因縁によって生じたものであるがゆえに、自在ならず、自主性もありません。このように身識と共にある意識心は私ではなく、私たちはこれを再び私であると見なすことはできないのです。
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