意根もまた意識を我と執着する。もし意根が五蘊や六識を我と執着しなければ、我々に我見や我見を断つ必要がどうして生じようか。それなら我見を断つ必要も、我執を断つ必要も、煩悩を断つ必要もない。そうすれば小乗の修行者たちは皆修行せずに済み、なんと楽で愉快なことか。しかし現実はどうか。
仏法の修行は文字に囚われてはならず、ひたすら名言名句を暗誦するものでもない。深甚なる理解と観行、如理思惟が最も重要である。もしそれができなければ、ある面で欠陥があるのであり、どこに不足があるかを見出し、補い円満にすべきである。自らの菩提心を検証せよ。菩薩の願力と心行があるか、福徳は足りているか。
もし意根が六識を我と執着しないなら、昏迷状態において意根は常に目覚めようとするのはなぜか。縛られた時、意根が常に束縛から逃れようとするのはなぜか。目隠しされれば、意根が常に覆いを除こうとするのはなぜか。グループで発言禁止にされ、話せないと不愉快になるのはなぜか。意根に我あれば不愉快になり、我なき者に誰が不愉快となろうか。
言語は意識の機能作用である。意根はこの作用を我の機能作用と見做すため、発言を禁じられ話せないと自由を失ったように感じる。意根が五蘊の意識を我と見做すため、発言禁止になると面目を失うと感じる。意根が眼識意識の見る性質を我と見做すため、目隠しされて色を見られないと不自由に感じ、必ず色を見て色に執着する。
意根は五蘊六識の機能作用を我と見做し、六識の行蘊を我と見做す。縛られて動けなくなると、自由を失ったように感じ、行蘊なきはならぬと考える。意根が色身を我と見做すため、身体を傷つけられると不愉快になり、必ず自分を打った者に報復しようとする。
意根は受蘊を我と見做し、享受を貪る。享受を許されなければ不愉快となる。意根は六識の了知性を我と見做すため、六識が見聞覚知することを許されず六塵を了知できなければ不愉快となる。
長患いの病人が長期に床に臥せり動けぬ時、意根がどのような味わいか考えてみよ。植物状態の者には意識が微弱で苦痛の感覚少なし。苦痛を感じるのは必ず意根であり、常に起き上がろうとし、常に境界を了知しようとするが、常に無力さを覚える。これらの事を意識は知らない。何故か。愚痴と無明の故なり。
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