衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年01月19日    土曜日     第1開示 合計1189開示

因果は真実不虚です

末法の世の衆生は心が浮ついているが、ある人々はあえて衆生の浮ついた心理に合わせ、衆生の歓心を買おうとする。もし少しも衆生の悪習に逆らわないならば、どうして衆生の悪習を正し、どうして衆生を解脱させることができようか。

衆生は貪欲であるだけでなく愚かでもあり、わざわざ刀の先端にあるわずかな蜜をなめようとするが、結局何を得るのか。誰も考えようとしない。大多数の人は目の前のわずかな利益だけを気にかけ、三悪道に堕ちるリスクを冒している。一見大胆に見えるが、実は愚かで目先のことに囚われ、遠い未来の大きな利益を考えることができないからである。

実際、ほとんどの人は個人の利益ばかりを考えて計画を立てるが、その行動によって利益を得られないだけでなく、往々にして既に持っている利益さえも失ってしまう。しかし、誰もこの点に気づかず、見えない。なぜか。無明と愚痴のためであり、煩悩が自らの目を覆い、自分自身を見失い、真の損益得失を見極められないからである。

因果に関して、多くの人は本当には信じておらず、常に「因果は他人に降りかかるもので、自分には及ばない」という僥倖心理を持っている。だからこそ、自分の利益のために、他人が自分の言うことを聞かないなら必ず悪い報いがあると言いながら、自分自身の悪果がまさに迫っていること、自分がまさに悪報の因を造っていることに気づかない。

私が仏教を学び始め経典を読んでいた頃、因果に関する実話をいくつか読み、因果が真実で虚妄ではないと信じ、身と口と意の三業を慎んで造作した。しかし、今の学仏者は経典を全く読まず、経典が何を説いているのかも知らない。そのため心が盲目で因果を理解していない。

現在はインターネットが発達し、悪業を造ることは以前よりもはるかに容易になった。指先ひと動かせば悪業は全国に広まり、まことに慨嘆に堪えない。指を動かした後の悪果が何であるか、自覚している者は誰もいない。無知だからこそ恐れを知らず、心が塞がれて他人に盲従し、善悪の区別もつかずに大きな悪業を造り、後悔の念すら抱かない。

ある人々が悪業を造るのは他人に唆され教唆されたためで、自分では事情を知らない。例えば「こうすれば大丈夫だ、因果は私が引き受ける、お前には善果だけがあって悪果はない」と言われ、そうした心盲の者はその言葉を信じ、その人物が本当に自分の因果を代わりに背負ってくれると思い込む。因果が訪れた時にはそれぞれが各自の果報を受け、互いに代わりになることは決してできず、たとえ実の親兄弟でもどうしようもないということを全く理解していないのである。

——生如法師の開示
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