私たちの視野は限られていて、地球そのものは見えません。しかし地球が見えなくても、自分自身が地球の上に足を踏みしめ、地球の上で暮らし、地球に支えられ育まれていることを知っています。この「知」は現量による直接的な認知なのでしょうか、それとも理屈の上での認知なのでしょうか。間違いなく理屈の上での認知です。なぜなら、この理を明らかにすれば、私たちがまさに地球の上にいると判断できるからです。仏が説かれた多くの道理も同様で、今この場で証得することは難しくても、累世にわたる善根によって、択法眼を備えるまで修行すれば、如理に思惟・判断することを通じて、仏法が正しいこと、それに依って解脱を得られ、仏道を成就できることを知ることができます。
たとえば阿羅漢たちはまだ涅槃に入っていなくても、法を学び思惟することを通じて、我執を断じ、三界の貪愛を断じ尽くせば解脱を得られることを了知し、心の中でもこの方法によって解脱して涅槃に入れると確信しています。まだ入ってはいませんが、涅槃に入った時を待って初めて、この修行方法が涅槃に入るものであると知る必要はないのです。これは仏が説かれた理に基づいて思惟・判断し、正しい結論を導き出したものです。多くのことは、自分で身をもって経験しなくても、その有無や正誤を知ることができ、智慧による認知をもってすれば、多くの道理を明らかにすることができます。智慧がなければ、たとえ身をもって経験しても、その所以を知ることはできません。諸道友にお勧めします。自分の知らない事理について、軽々に「違う」「正しくない」「ない」「誤りだ」と言ってはなりません。常に自分の智慧がどの程度に達しているかを量り、正しく思惟・推理・判断できるかどうかをよく見極めてください。あなたが導き出した結論は必ずしも正しいとは限らず、とりわけ仏の説かれた法について判断を誤れば、それは誹謗となり、仏と法を誹謗したなら、その後果は非常に重大です。
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