衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月02日    金曜日     第2 回の開示 合計128回の開示

現量とはいかに観察するか

いかなる観察が現量であるか。例えば色蘊の虚妄性や生老病死を観察する場合、私たちは皆現前に観察することができ、これが現量です。しかし色身の刹那生滅は凡夫には観察できず、物理学で説かれる電子の瞬間生滅の原理を用いて色身が刹那生滅であると推論する場合、この推理も現量に含まれるのでしょうか。実際のところ色身の刹那生滅現象は、おそらく仏陀のみが現量で観察し得るもので、極めて深い定力と深妙な智慧を必要とします。深い定力がなければ決して観察できません。私たちは比量によって知るほかなく、その比量が正しく仏陀の正教量に合致するならば、方便として現量と言うこともできます。

例えば仏陀の教えに従って宇宙器世間の生滅虚妄性を観察する場合、実際には眼識で現量観察することはできません。私たちの寿命が短すぎるため、宇宙器世間の生滅虚妄現象を観察する十分な時間的広がりを持たず、宇宙が広大すぎるため、有限な眼界では全体を観察できないからです。しかし如理思惟を通じて最終的にこの理を真に認めることができれば、これも宇宙器世間の生滅虚妄性を現量証得したと言え、如理如法の思惟結果であって非量ではありません。

刑事が事件を解決する例を挙げれば、現場に残された証拠を基に比量や非量の思考推論を用いて真相を解明し、事実を明らかにする場合、その比量及び非量による観察結果が正しければ、これも現量境界です。つまり事実に合致する比量及び非量の推理は、現量境界と見なせます。学生が幾何問題を解く場合も、比量や非量の思考方式を通じて最終的に命題の正当性を証明すれば、これも現量境界です。色身の刹那生滅現象を現前に観察できなくとも、如理如法の思惟観行を通じて最終的にこれを証明できれば、得られた結果は現量境界と言えるのです。

——生如法師の開示
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凡夫の現量観察は信頼に値しない

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