衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月02日    金曜日     第4開示 合計130開示

電の如く露の如く、夢幻泡影

一切の有為の造作された法は、夢の如くである。幻の如く、水泡の如く、影の如く、露の如く、空中の電光の如くである。全ての菩薩は世間の一切の有為法に向き合う時、このような観照を行い、かくの如く一切の有為法を見なければならない。

一切の法は虚妄実体なきが故に、菩薩たちは再び執着する必要もなく、再び執取する必要もなく、それに従って動転する必要もない。夢の中で、我々が如何に夢の中の一切の人事物を執取し、如何にそれに動転・動揺し、業行を造作しても、結局は畢竟として無一物であり、毫末も執取できないのと同様である。誰も夢から何かを得たことはなく、徒らに心を労するに何の益があろうか。

一切の有為法は、如来蔵が縁に依って幻化したものである。あたかも幻術師が意念によって一切の人事物を成じ、突然虚空中に顕現するが如し。しかし幻術師は意念を収めれば、一切の人事物は再び空無に帰する。何ぞ把捉に労し、徒らに心を駆使する必要があろうか。

一切の有為法は、如来蔵という大海から生じた泡沫であり、如来蔵の大海で生じまた滅する。三界世間の一切の人事物は、海水の泡沫の如く、生じては滅し、滅してはまた生じ、生滅を繰り返して大海に帰する。何ぞ徒らに泡沫を執取して、大海を見ないことがあろうか。

一切の有為法は、恰も月影が千万の河海に落ちるが如く、有るようで無く、有るように見えても掬い取ることはできない。ただ凡夫は痴なる猿の如く、手を執って掬おうとするが、空空として無物である。菩薩の智者は智慧の眼をもって影であることを観照し、何ら捉えるべきものはない。一切の有為法は朝露の如く、朝日が昇れば瞬く間に消え、速やかに生じ速やかに滅する。何ぞ執着すべきものがあろうか。一切の有為法はまた雨中の電光雷鳴の如く、刹那に虚空を劃し、瞬時にして影跡なく消える。驚魂なお定まらぬまま、驚恐万状の間に、それは既に消失し、影も形もない。

世尊は菩薩たちに教えられた:悟った後は常にこのような観照を行うべきであると。そうすれば自心は清浄となり、無執無取、一塵も染まず、一法も執しない。かくして本心の真如に相応し、真如に随順すれば、無上菩提を得ることができる。この無執無取の心をもって衆生のために金剛経を演説し、諸々の衆生を度して共に幻塵を出で、共に幻影を滅し、共に諸仏の大智慧の海に入り、共に諸仏の一切種智を円成せしめるのである。

かくの如く金剛経を受持読誦し、如来蔵の法を演説するその福徳と智慧は、世間の衆生の中で誰が比肩し得ようか、誰が勝ることができようか。このように自利利他すること、豈に妙なることではあるまいか。豈に快なることではあるまいか。

——生如法師の開示
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凡夫の現量観察は信頼に値しない

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定中の意識における三量の了別

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