定中の意識の所縁には三量がある。もし色身の覚受を縁とする場合は、現量で了別するものである。もし観想や思惟を行う場合は、非量で了別することもあり、比量で了別することもあり、現量で了別することもある。例えば、自分が本地にいながら、ある形象に変じて彼の地へ飛んで行くことを観想し、さまざまな境界を想像することは、すべて非量で了別するものに属する。例えば『観無量寿経』中の日想観のように、初めは非量で了別するが、観行が成就する時に至れば、落日を観ずとも自動的に現前し、意識の了別は現量で了別するものとなる。
もし色身と以前の差別変化を比較し、境界の善悪美醜を比較する場合は、比量で了別するものである。もし思惟によって正しく現実的な結論を導き出す場合は、現量で了別するものである。二禅以上の定中の意識が了別するものは、すべて現量で了別するものである。なぜなら思惟がなく、観想することができず、ただ単純に定境の法塵を了別するだけで、知覚が生じず、自分の了別性を知らないからである。禅定の層が深まるほど、その了別は現量で了別するものとなる。もし禅定中に過去世の影像が現前すれば、意識もまた現量で了別するものであり、未来世の境界が現れ出れば、意識もまた現量で了別するものである。
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