衆生は無始の劫よりこのかた、無明を有しており、心は一度も明らかになったことがありません。もし衆生に無明がなくなれば、無明が断じ尽くされたならば、それは仏となります。衆生はかつて仏となったことがなく、もし衆生が仏となったならば、永遠に再び衆生に戻ることはありません。円覚経にはこのくだりが説かれており、世尊は例えを挙げられました:例えば金鉱山から精錬された純金は、決して再び金鉱山に戻ることはない、と。つまり仏となった後は永遠に衆生に戻らないという意味です。これはまた、衆生が無始の劫より無明を有していることを示しており、これについて理屈を述べる必要はなく、法爾如是(真理はあるがままにそうである)なのです。楞厳経第四巻において、阿難も世尊に無明はどこから来たのか、なぜ無明があるのかと問うたところ、世尊は無明には来処がなく、原因もなく存在していると答えられました。もし原因があるならば、それは無明ではないと説かれました。
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