衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年01月21日    月曜日     第2開示 合計1194開示

実証仏法には修定が必要です

もしもすべての人が大念住経(マハーサティパッターナ経)の方法に従って修行すれば、小乗の悟りは速やかに成就し、禅定は必ず成就するでしょう。しかしながら、現代人の心はあまりにも散乱しており、これらの観行を完成することができません。仏陀が在世された時代には、比丘たちは皆このように修行していたのです。

現在の状況を見ると、私たちの修行に必要な大乗・小乗の理論的部分はほぼ十分に整っており、不足しているのは実践のみです。実践においては必ず戒・定・慧を修め、菩薩の六波羅蜜の修行、特に福徳と禅定の両面の修行を完成させなければなりません。個人での修行が困難であれば、共修(集団での修行)に頼る必要があります。仏陀在世中、弟子を率いて共修したことは一度もなく、各自が結跏趺坐して観行し、仏の説かれた法を思惟し、それによって悟りの境地を証得していたのです。

現代人は生活や仕事が非常に忙しく、坐禅する時間がありません。しかしながら、禅定が確かに向上せず、思惟が浅く緻密でないため、法を証得できないということも事実です。坐禅後の禅定と、ただ歩行・立位・坐位・臥位における禅定との間の差は非常に大きく、坐禅を経験した者でなければその差を実感することはできません。自分で方法を考え出し、自分自身に対して責任を持たなければなりません。多くの理論を知っているからといって悟りを得たわけではなく、滔々と語れるからといって悟りを得たわけではないのです。実証した後であれば、たとえ雄弁でなくとも悟りはあると言えます。雄弁であっても実証がなければ、それは悟りではありません。

実証によってのみ生死という重大な問題を解決できるのであり、どのような教えも道業(悟りへの修行)よりも重要なものはありません。たとえ死んでも道業を成就させなければならず、そうでなければ、生きている間に世俗的な事柄でどれほど成功しても、何の役にも立たないのです。

——生如法師の開示
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仏法の修証において人が悟りを開いたかどうかをどのように判断すべきか

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