六識に貪厭の心行があることは、六識に欲心所のあることを示す。意根に貪厭の心行があることは、意根に欲心所のあることを示す。識心が所縁境に対して領納性を有し、他の識の了別内容を了別し、相互に配合することは、識心に勝解心所があり、智慧が生じることを示す。識心が法を念じることは、念心所のあることを示す。識心が法に定まり、了別慧が生起することは、定心所のあることを示す。識心に分別の智慧があり、相応する理解力と抉択力を有することは、慧心所のあることを示す。
七つの識には全て慧心所があり、意根の慧心所が弱い者は、世俗法で言う先天性の愚痴や知的障害に当たる。七識には無明があるものの、世俗法においては一定の智慧を有しており、そうでなければ世間の事柄を如何に成就し、如何に生存できようか。七識が世俗法上の智慧を有するが故に、菩薩方が経典を翻訳する際、「如来蔵」という般若智慧を漢語の「智慧」と訳さず、七識の慧心所と区別し、混同を避けたのである。
現代化された先端技術の開発、物理・化学・数学・生理学・心理学等の分野における理論の発展は、七識の慧心所による成就であり、その中で意根も慧心所の機能を具足せざるを得ない。特に天才たちの智慧とは、主に意根の先天的な智慧を指し、意識が後天的に学び得た智慧ではない。ならば意根の慧心所は如何に優れたものか。
意根の慧心所は不可思議であり、凡夫の慧心所や畜生の慧心所でさえも不可思議である。仏菩薩の慧心所は言うまでもなく更に不可思議、思議の及ぶところではない。しかし全ての不可思議なる境界も、仏は悉く思議し得る。そうでなければ仏に無明あり、もはや仏とは言えない。これらの慧心所法は、先天的に具わるものもあれば、後天的な修行によって初めて生じ成就するものもある。
意根が世俗法における慧、例えば念仏を唱えて修定を導く際、気力不足に陥ると、意根が突然低音に改めることを決定し、音調が即座に変化するが、意識は未だ覚知しない。意根と如来蔵の二者が和合して一切の法の生起・運作・変化を決定する場合、多くの時六識は覚知せず、意根の慧は真に不可思議、随時に一切法を了知し機に応じて変化し、如来蔵はその歩調に寸分違わず追随する。
また例えば色身が特定の栄養を必要とする時、特にその栄養食品を好んで摂取しやすく消化吸収しやすい。色身が特定の養分を必要としない時は、色身が拒絶して摂取を好まず、食べても吸収し難い。意根と如来蔵というこの二者は、究竟何を仕組んでいるのか、意識では真に想像も及ばない。
故に我々が考えてみるに、意根の了別慧は果たしてそれ程低劣なのか。必ずしもそうではなく、どの方面においてかによる。六塵の細部を了別する具体的な内容においては、智慧が不足し不十分であるが、なお意識がその欠陥を補うことができる。他の方面においては、意根の智慧は依然として極めて強く、故に意根は甚だ聡明であると言われる。もし意根の慧が真に低劣であるなら、如何にして五陰身を刹那に反応させ、緊急事態に対応し、随時色身を調節して周囲の生活環境に適応させ得ようか。意根はまず色身の状況を了別し、その後六識を指揮して造作する。もしその慧が常に低劣であるなら、如何によく六識を指揮して周囲の一切の状況に対応し、如何により良く環境に適応し得ようか。
既然く意根と如来蔵の二者が永遠に相俟って事を成すならば、意根を証得し禅定が具足する時、意根の全ての心行の処において如来蔵を捉えることができる。これが甚深なる唯識開悟の法門である。その後、六・七識の智慧は極めて深細となり、初禅定を修得するや、禅宗三関を一躍して超え、初地入りは目前となり、修行は一大阿僧祇劫を超越する。慧根ある久修の大菩薩方は、此の決心・毅力・勇気を有すべきである。悟りを得んとすれば識心より悟り、仏法の究竟処に至り、八識の和合運作を悉く観察し得て、速やかに唯識種智を生起し、将来如来の家業を分担する能力を具え、仏教の柱石となるべきである。
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